あなたの新しい生活へのお引越し、お手伝いしましょう

1/2
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ

あなたの新しい生活へのお引越し、お手伝いしましょう

 生活が一変するので、住居の内覧に来た——はずである。 「さて、こちらがあなたさまの新居になります」  はずであるが、この部屋は一体どうしたことだろう。  こじんまりとしたワンルーム。比較的狭いけれども閉塞感はない。それはいいのだが。 「あの、私、一応は新契約ということでシェアハウスは希望しなかったと思うのですが」  部屋が妙なのだ。すでに必要な家具は整っているし、それはまだいいとしても壁やら床やら所々汚れた感もあるし、使い古した跡もある。  心機一転、新しい生活を始めたいと思って、内覧希望を出したのも新しい部屋のはずだったのだが。 「なんでこんなに物があるんでしょう。しかもどれもこれも使い込んだ感が強い……」  しかし目の前にいる不動産屋らしき人物は、メモ用のボードを手ににこにこと笑う。 「ああ、よろしいんです。これからあなたさまと一緒にどれが必要か、どれを変えようか相談していきますから」  そういうこと? なんだか海外の家具付き物件への入居みたい。  疑問は大きいが頭がふわふわする。まあいいか、買わずに済む物があればそれも便利だし。 「えっと、それじゃあ」  要らなそうなものはないかと部屋をぐるりと見回した。ソファにベッド、キッチン用具、椅子と机。 「このソファ、ちょっと私には大きすぎる、かな、と思うので。こんなには」 「あぁお目が高い。そうですね。これはもうあなたには必要ないでしょう」  見るからに座り心地の良さそうなソファ。あったらあったでとても快適だろう。明らかにふかふかで、腰を下ろしたら最後、ずっとそこに安楽を求めそうだ。  惜しい気もするが、新しい仕事環境に合うだろうか。 「ではこれは一旦出してしまいましょう。ベッドはどうしましょう」 「あ、それは取っておいて」  直感的に答えていた。こちらも使い込んだ寝台だけれど、ソファよりも安定した感じ。というより私に馴染む感じ? 捨ててしまうと落ち着かなそう。  不動産屋は、了解です、とメモをしたため部屋の奥まで進んでいく。キッチンにはケトル、お皿、取っておいても問題はなさそう。お鍋は……買い替えたいかも。それから椅子とテーブル。仕事とご飯と兼用かな。 「この椅子とテーブルは……私は破棄してしまった方が良いと思うんですよね」 「え、なんでですか。このままでも良くないですか」  確かに触った感じはざらついているし、最高快適というわけではないけれど、廃棄するのも勿体無い。  しかし不動産屋は少し首を傾げて、それからメモに書きつけた。 「不快感が皆無なわけではないでしょう」 「なんでわかるんですか」 「そりゃ、わかります。というわけで、新しいあなたにはもっとふさわしい物がありますね。こんなもの取っておいたら仕事に支障が出ますし、十分に休めませんよ。廃棄廃棄」  なんでこの人が決めてるんだろう。疑問に思わないわけでもなかったが、そう言われるとそうな気がしてしまう。肌触りは馴染みがあるけれど、摩擦が大きい気もする。確かにずっと一緒にあったら次第に疲れてきそうな。  まあいいか。プロに任せるのも。そんな気分になって、今度は壁に寄って行った不動産屋のあとを追う。  壁には一枚の絵が掛かっていた。綺麗な風景。既視感があるけれどどこだっけ。懐かしくて美しく、色褪せてしまっているけれど手放すのは惜しい気もする。 「これは取っておいてもいいですか?」 「ああ、いいんじゃないですか。これはあなたの精神を保つのに重要だ。でも一つだけ忠告しますよ」 「この絵をとっておくのに?」  ただの絵だ。別に夜中に誰かが絵の中から現れるわけでもないだろうに。  怪訝に思う私とは対照的に、不動産屋はしたり顔で頷く。 「この絵に縋るのはおやめなさい。辛くなってちょっと見るのはいいですけれどね。この絵を頼りにしてはいけません」 「どういうことです?」 「まあ、わかりますよ。一日に眺めすぎないことですね。どうしても起き上がれなくなったら見るといいと思います」  ベッドと絵の間にはかなりの距離があるし、見ようと思ったら起きなきゃいけないと思うんだけど。  そういうことじゃないの?   疑問を挟むもさらりと無視されて、不動産屋は机の上にあったマグカップを手に取った。 「さて、それじゃこれも捨てますね」 「待って!」  なんで私は叫んだんだろう。 「それは取っておきたい。捨てないで!」  なんで取っておきたいんだろう。  わからないのに、考えるより先に口が動いている。  丸っこくて手触りが良くて、暖かくて愛しいマグカップ。  触ってもいないのにそう分かる。  捨てないで。  捨てないで、捨てないで、捨てないで。  それはまだ捨てたくない。  しかし不動産屋はふるふると首を振った。 「捨ててしまった方がいいです。これは捨てちゃいましょう。記憶の中にあるならいいですが、取っておいたらあなたに毒だ」 「どうして。嫌よ。まだ捨てられない」  手放したくない。手放せない。それはまだ——  心の中で叫ぶ。お願いだからまだ捨てられない。 「そうなるからいけないんですよ」  ほらね、と彼が言った途端、息を呑んだ。  たった今までそこにあったマグは、跡形もなく消えていた。 「なんてことするの!」  我知らず、私は叫んでいた。大好きなマグだったのに。あなたになんかわからない。いかに私にとってあれが大事だったのか。離れたくなかったのか。勝手にどうにかしないで。  熱いものが喉元から込み上げて、肺が苦しくなって、目が潤む。  それなのに彼はそんな私を見て呆れた顔をした。 「何を情けない。これを無くしてしまわないと、あなたは前には進めない」  そして奇術師のようにパチンと指を鳴らすと、ご覧なさい、と両手を広げてみせた。  どうしたことだろう。  奇妙に思えた部屋が持つ違和感が全て消えている。新たに加わったのは、期待と安心と、不安と興奮と、それから未知の事柄を始める時のえも言われぬ快感。 「準備が整いましたね。ご入居は……」 「——今日から」  私の思考の外で、けれども私の意思が、はっきりと返事をしていた。 「承りました。それでは今日から。おめでとうございます。あなたの新生活に祝福を」  そしてもう一度、パチンと指が鳴らされたと思ったら、眩い光が私の視覚を奪った。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!