一、

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 俺が情事の後の微睡(まどろみ)から目を醒ますと、女は空を眺めていた。夜はまだ続いている。女の横顔はあまりにも穏やかで、それはまるで世界の死を(いた)むような姿だった。  窓をすり抜けて入りこんだ夜の明かりはただ真っ直ぐに、俺と彼女のいる部屋を照らしている。何か、探し物をする灯台の明かりのようでもあり、俺はそれに思い至った時、酷く恐ろしい気持になった。  俺にとって大事な何か、きっとそれは失くしたところで俺すら気が付かないような些細なものだろうが、しかしそれでも大事な何かをこの月の光が(さら)ってしまうような、そんな予感があった。  女の耳は、今も美しく彼女の髪の奥で佇んでいる。深淵(しんえん)を思わせるその陰の先で俺を誘うようにして穴が見ていた。 「あら、起きたの」  女は言った。 「ああ、悪い。気が付いたら寝てたみたいだ」 「良いのよ。それより、ねえ。今日は月が凄く綺麗なの」  女はどこか寂しげな、そして満足げな表情を浮かべている。  女というものはつくづく演技症なところがある、と俺はその見慣れた表情の在り方に辟易(へきえき)した。男のことを理解しているのだ。どんな表情が男を誘い、どんな表情が男を苛立たせるのか。  その証拠に、彼女たち、つまり女は事の前に必ず部屋の何処(どこ)かに明かりを点ける。仮に僕がそれを消そうとすればそっと指の仕草でもってそれを阻止するのだ。明かりが消えてしまえば、演技などは何の役にも立たないのだと、女はよく知っている。  そして、男達はそれに気づいていようとなかろうと、どうしたって誘いに乗ってしまう。そういうシステムが、きっとあるのだ。もちろん俺も例外ではなく、心の何処かで悪態をつきながらも体や心というものはどうにもならず、女の思うままになってしまう。悲しい、そんな生き物なのだ。 「どれ」  俺はベッドから起き上がり、女の側に寄った。俺の近寄る風に吹かれて、女の香水がふたたび微かに匂った。先程と比べ落ち着いた素振りのその匂いはなるほど確かに、彼女によく似合っている。多かれ少なかれ、俺はこの女に対してある程度の好意を抱いていた。  俺にとってはただ、彫刻のための経験に過ぎないこういった行為は、理性でそう理解しながらも結局のところ情欲とも呼ばれるのであろう感情を俺に呼び起こし、そして、しばらく俺は苦しむことになる。俺自身の中に発生する矛盾や乖離(かいり)のせいで……。 「見える? もっと寄って」  女が俺の(そで)を引いた。俺は言われた通り女に近づき、夜空の星を辿っていく。やけに眩しく光る月がそこに在った。 「ああ、確かに、綺麗だね」  そう言った後で、俺はようやく気が付く。空に浮かんだ月の異変に。見間違いだと思い、目を擦り、再び目を開ける。力を入れ過ぎたか、やや涙ぐんだ視界の中であのぼんやりとした輝きが見える。しばらくして、視界が落ち着く。やはり、月の様子はおかしかった。 「ね、旅行はどこにする? 私、田舎が良いわ。人の喧騒から離れてゆったり過ごすのよ。きっとあなたも良い気分転換に……」 「……月」 「月? 月に行きたいの?」  女が、馬鹿ね、と笑う。どうかしている。 「違う。……月は、いつからあんな形になったんだ?」
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