一、

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 ()。たとえるならそれは()だった。  幾何学的(きかがくてき)で、人為的(じんいてき)。蓋を開けて何かを入れて、仕舞っておくための形状だ。そんな箱型の月がこちらに正面を据えて浮かんでいるのだ。こんなにも奇妙なことはない。  おまけにそれは、異物じみた様子でなく、あくまで自然体で存在しているのだった。どのようにしてか、太陽の光を反射して黄色く、白く輝き、そこに鎮座している。困惑する俺を揶揄うように、流れる雲にその一部を隠しながら。 「ううん、そうね。そう言われたらすこし変わった形しているのかも。でも昔からあんな形だったはずよ。大丈夫? 手が震えてる」  女は心の底から心配そうにして俺の手を撫でる。女の言う通り、俺の手は震えていた。先程に感じた、何かを(さら)われるかのような不安が、こんなにも不可思議な形で成立するだなんて想像も出来なかった。  そもそも、俺が何かを攫われただとか、そんなことではなく、世界から、何者かが月を攫ったのだ。その代わりに、あんな得体のしれない月の偽物を置いていった。  あるいは、月の変身だ。いつの間にか意志を持った月が、自らの醜さを恥じてその形を変えたのだ。人間でさえ、個々人によって美醜(びしゅう)の感覚は異なるのだからそうであったとしても別段おかしいことはない。俺は月の形は丸いのが最も美しいと、そう思い込んでいたが考えてみれば確かに……。 「ちょっと!」  女の呼びかけで、俺は意識を取り戻す。そうだ、もしかすると俺の勘違いかも知れないのだ。もともと月は箱型だった。ただ丸いと、俺が思い込んでいただけで……。 「悪いね、ちょっと、気分が悪いんだ。ごめん、ごめん……」  俺の言葉を聞いて女はあからさまにその表情を変える。 「なによ、そんなに私との旅行が嫌ならそう言ってよ。そんなにお月様が好きなら行ってらっしゃい」  女はわざとらしく、片方の頬を膨らませると、可愛げに()ねてみせた。 「違うんだ、違う。本当に妙な気分でどうにもそんな気分じゃないんだよ。今日はもう寝よう。旅行のことは、それからでも良いだろ?」  俺がなだめすかすと、女は俺の肩に優しく頭突きをした。俺は、月から目を逸らし、彼女のその額を持ち上げて唇を付ける。大丈夫だ。別になんてことはない思い違いだ。それに、月の形が変わったからなんだというのだ。大したことじゃない。俺には関係がないこと……。 「さあ、寝よう。一緒に」  俺は女の顔をこちらへと向け、今度は唇同士で触れ合った。数度突きあったあとで女はゆっくりとその目を閉じ、俺に全てを委ねるようにしてその舌を絡めてきた。視界の先で今もまだ、箱になった月が浮かんでこちらを見ている。  俺はもう、月のことは考えないことにした。意識的にそれを排除しなければ、女の持つ引力でさえ敵わないほどのもっと強い何かに、心を持っていかれるような恐ろしい気持だった。目を閉じ、女の匂いと、ざらっとした柔らかい舌の感触にだけ集中を注いだ。耳に触れ、指でその形を確かめる。  美しく、しなやかで、柔らかい。  頭の奥で、あの月が覗き込んでくる。女の耳よりも湿っていて、もっと甘やかで、秘密めいている……。  ああ、もう俺はきっとどうにもならない。遠くに女の吐息が聞こえる。俺はほんの少しだけ目を開き、カーテンを閉め切った。その間も女は俺の首や胸を撫でたり、舌でなぞったりしている。カーテンを閉めてもなお、夜の光は隙間という隙間から忍び込んでくる。俺は目を閉じて、女を抱いた。何かから身を守るように、何かから隠れるように。  得体のしれない不安感に対する正しい自分の守り方を、俺は知らない。少しだけ、隣で俺に張り付く女のことをうらやましく思えた。
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