一、

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一、

 俺の思うに、女の価値というものは耳に現れる。形や、(つや)や、色、あるいは場合によって、動き。その全てが正直であり、人間の持つ表情よりも少ないバリエーションにおいてより多くの、細かな心の在り方を示すものだ。  俺が男の耳と女の耳とで区別する理由は、その役割における違いからであり、つまるところその用途、男は追うため、女は守るためという原始的ともいえる俺自身の思想に起因している。現代的とはいえないその俺の考えが肯定されることは少なかったが、いつだって俺はその考えの正しさを疑わない。つまり……。 「つまり、何?」  俺の隣でタバコをふかしながら、女が聞いた。赤い唇に挟んだタバコを指に持ち替えると、その豊からしい姿をした煙を飲み込む。俺は彼女の手からタバコを受け取り、同じようにして煙を飲み込んだ。  妙に甘ったるいバニラの香りがした。 「俺の彫刻は、耳が大事なんだ」  ふうん、と女は答える。  彫刻のモデルとなった彼女の耳はやはり、美しかった。その全てが曲線で構成され、著名な絵画がそうであるように、その小さな穴にむけて全てが編集されている。  薄暗がりの部屋の中で、ベッドサイドランプの黄色い灯りが彼女の耳を照らしている。どこか、民族的な魅力を(はら)む耳だった。 「私にはその……、あなたの彫刻のことはよくわからないけど、とにかくあなたのことは好きよ」  そう言って彼女は微笑み、俺の頬に口づけをする。胡椒(こしょう)にも似た、控えめな刺激を含む香水が匂った。 「まあ、良いんだよ。君は彫刻家じゃないし、モデルなわけだから」  俺は彼女の首元に手を当て、香水の匂いのもとを辿るようにして耳に鼻を当てる。彼女の人間としての匂いがそこにはあった。息を吹きかけると、もう、なんてことを言いながら女は(あえ)いだ。 「ねえ私、どこか旅行に行きたいわ」 「たとえば?」  俺が尋ねると女は俺の肩に頭を預ける。彼女の短く切り揃えた髪が肌をくすぐり、俺は小さく身震いをした。  そうね、と言って女は黙った。夜の道路を走る車の音が近づいて、そして遠ざかっていく。今この部屋の中に在るのは男と女と、そして(わず)かに舞う埃の音、それだけだった。  彼女が考えている間(もしかしたら何も考えてなどいないのかもしれないが、その真相は果たして俺にはわからなかった)、俺は静かに彼女の耳を嗅いでいた。まだ微かに感じる香水と、そして彼女の人間的な匂いを見失わないように慎重に嗅ぐ。ある時は少し呼吸を止め、常に一定の鮮度を保つようにして何度も嗅いだ。  ある意味で言えばソムリエのするテイスティングにそれは近かった。  俺はしばらくして女が何も話さないのを確認するとその耳の外側からゆっくりと舌を這わせた。やはり、先程思った通りその道は穴へと続いていき、その穴の先へは、どれだけの努力を以てしても届くことはなかった。  女の吐息がすぐそこで聞こえる。獣の息遣いのようなそれは、洞穴(ほらあな)に籠る俺を責め立てる脅威のように存在しながら、それでいてどこか男としての本能的興奮を呼び起こすものだった。 「あなたとなら、どこでも良いわ」  (かす)れた吐息の中で、女はそんなことを言った。言葉の意味というよりも、音としての意味が俺の神経を気持ちよく刺激する。ベッドで語られる女の言葉は嘘ばかりだ。それならば音の意味を考えるのが良い。  俺はそんな言い訳じみたことを考えながら彼女の耳を繰り返し何度も行き来した。感触を確かめるようにして優しく噛むと、女の身体がぴくりと反応し、(とが)めるようにして俺の左の肩を女の爪が引っ掻く。  追うことと、守ること。今この部屋に在るのは、そのふたつだった。
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