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I
ロシア連邦レニングラード州【サンクトペテルブルク】
合皮のジャケットを羽織った若い青年が青いギターケースを片手に歩いていた。
黄昏時、ペテルブルクの最も特別で美しい時間だ。
コバルトブルーの大空が遥か先まで広がり、地平線は炎のような輝きに満ちていた。
九月の心地よい風に白金色の長髪がわずかに揺れる。
長身の適度に鍛えられた体、計算され尽くした建造物のように綺麗に伸ばされた姿勢には瑞々しい活力が溢れていた。
街とそこを歩む人々を見つめる淡青色の鋭い瞳には、わずかな反骨精神が冷たい炎となり宿っている。
男性――アレクセイ・ヴィソツキーは大学を出た後、故郷【セルギエフ・ポサード】よりサンクトペテルブルクへと引っ越してきた。
至聖三者聖セルギイ大修道院を中心に作られたセルギエフ・ポサードは、美しい自然と澄んだ空気に恵まれた古都だ。
だが、あまりにも〝ロシア的〟な街だった。
住民の多くがロシア人であり、高齢化も進んでいる。
今もロシア、更に言えばソビエト的な価値観が大切にされている。
無駄な愛想は振りまかず、本音を隠さない素直な付き合いを好む。
男女問わずに意見をぶつけ合う時は強い言葉を使い徹底的に言い合い引かない。
身内とみなした相手にはどこまでも愛情深く、良くも悪くも金銭を信用しない。
他者との心の繋がりや刹那的快楽に価値を置く。
我らが愛すべき歴史の都は、この大地に生を得た同胞をいつでも母のように迎え入れて癒す。
だが、ここでは時が止まったように動かない。
自分達の未来も容易に想像できてしまう。
それは漠然とでも、何かを成さねばと考える若者達に言い知れぬ不安も与える。
サンクトペテルブルク――欧州の風が海を伝い流れ込む、かつての帝都。
この街では他の多くのロシアの都市とは違う独自の文化が生まれていた。
ポタリ、ポタリと雨が降り出したかと思えば止む気まぐれな天気。
耳をすませば、心地良い運河の水の流れが聞こえる。
歴史を感じる建物が立ち並び、街頭の明かりに照らされた眠らぬ街は、どこを切り取っても旅行社のパンフレットを飾れそうだ。
かと思えば、街の各地には入るのが躊躇われるような喧騒を放つ店もある。
腹ごしらえに入ったケバブ店では成人してるかも怪しい二人組女性が、酒瓶を何本もテーブルに置き騒いでいた。
これもまた実にこの街らしい光景だ。
満足した彼は、ここ数日毎日顔を合わせる深夜まで花を販売している女性と世間話を交わした後、運河にかかった橋の隅でギターの演奏を始めた。
未来は見えない、だが何もしないのはもっと怖い。
彼にはあり余るエネルギーと行動力、そして奇妙な〝運〟があった。
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