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僕たちは大きなテーブルの上で暮らしている。
「私、結婚しようと思うんだけど、どうかしら。みんなはどう思う?」
突然、イザナエルがそういった。
「え?」
僕はしばらく言葉が出なかった。アメもイサギも同じだったみたいだ。イサギが何か答えてくれると期待していた。それも、すぐ反対してくれると思っていた。けど彼女は、僕の予想に反して無言だった。仕方がないので、代わりに僕が訊いた。
「僕たちはどうなるの」
僕とアメとイサギは、イザナエルの養子だ。三人とも同い年で、僕とアメは男子、イサギは女の子だ。イザナエルが一八歳のとき独立して、僕たちを引き取ってくれた。僕たちは当時六歳だった。テーブルの上の人間は、誕生日が不明の人が多いので、年明けに皆平等に一つ年をとる。今年、イザナエルが二三歳になり、僕たちが一一歳になったからだろうか、イザナエルが突然結婚することを思い立ったようだった。
「みんなが一八歳になるまで一緒にいればいいじゃない」
イザナエルが呑気にそう答えた。僕はちょっとほっとした。
「結婚するなら、一人前になる訳だから、身体検査を受けないといけないんでしょ」
イサギが厳しい顔でそういった。僕は「あれ?」と感じた。アメはポカンとしている。
この国では、結婚してはじめて一人前として扱われる。大人になるのだ。一八歳になったら養子も持てるし、そうすると養育費がもらえて独立できるけど、結婚するまでは子どもだ。子どもは無条件でテーブルの上にいられる。大人になるときに、テーブルの上に相応しい人間か判断されることになる。だから、僕たちがこのまま一緒にいるためには、イザナエルは身体検査をクリアしなければならない。イザナエルがなんでまたわざわざ面倒なことを始めようとしているのかが僕にはわからなかった。子どものまま、このまま、子ども達だけで一緒にいればいいじゃないか。
「結婚したい相手がいるの?」
イサギが訊いた。そうだ、イザナエルに好きな奴ができたのかもしれない。
「相手はお役所に紹介してもらうの」
「ええっ」
イサギと僕の声が重なった。純粋に驚いた。
イサギと同じ意見なのかもしれないけれど、僕は反対だ。イザナエルにはちゃんと好きな人と一緒になって欲しい。じゃあ、じゃあ、なんで結婚するんだ? 本当にわからなくなってしまった。わかっているのは、こうなったらイザナエルを止めることはできない、ということだけだった。
イザナエルは手続きをするため、お役所へ出かけて行った。
テーブルはひとつの都市が乗っかるほど大きい。実際、都市が乗っかっている。
一体、どんな奴が父さんになるのかな。
僕が思案していると、アメが寄って来て、泣きべそをかき始めた。
「ヨミがイザナエルを止めてくれると思っていたのに」
アメは、またいつもの雨模様の心境らしい。
「イザナエルが一旦ああなったら、止めるのは無理だよ」
この家は女子の方がしっかりしているからなぁ。
「イザナエルが結婚するのが嫌な奴だったら、どうしよう」
アメは、悪い子ではないけど、いつもこういうときは自分の心配ばかりする。イザナエルのことを心配していると思って返事すると、肩透かしを食らう、気をつけなければならない。大体、アメは余裕がない。自分以外のことを気にかける人間的余裕がないんだ。アメは悪くない。仕方が無いことなんだ。キャパシティーがないんだ。
「僕、お父さんに虐められないかな」
やっぱり。こうくるんだよ。どうにかなんないかなぁ。
「大丈夫だよ」
「何を根拠にそういうの」
「大丈夫だって」
他に心配することは、たくさんあるだろうに。
男二人でごちゃごちゃいっていたら、僕らと離れて窓の外を見ていたイサギが呟いた。
「男子、うるさいよ」
ちょっと助かった。このままアメの話に引き込まれたくはなかったから。でも、イサギが怒り始めたらそれもちょっと面倒だから、こっちの対応も気が抜けない。イサギも黙っていたら超美少女なのだけど、いかんせん気が強すぎる。いつでも怒っている訳ではないのだけど、予期せぬタイミングで逆鱗に触れることが多いので注意しなければならない。
イサギは窓を開けていた。イサギのショートカットの艶やかな黒髪が風に吹かれているところを見ると今日は風があるとわかる。イサギは本当に短く髪を切るのが好きだ。むしろ男子のアメの方がイサギより髪が長い。アメは短めのおかっぱで、ヘルメットを被ったような髪形をしている。マッシュルームカットとかいうのだろうか。アメは髪質がいい。まっすぐで真っ黒な髪をしている。僕の髪は少し癖があって茶色っぽいから、短く切ってごまかしている。僕とイサギの髪の長さは同じくらいだろうか。僕は男子だからいいけど、イサギは女子なんだからもう少しくらい長くてもいいのにと感じる。イサギはスカートもはかない。着てみたら似合うと思うんだけどな。
イサギが見ている窓の外は、こちらも雨模様だった。霧も立ち込めている。今日はドームが開いているのだろう。そういう放送があったかも知れない。だから雲がテーブルの上を這っているのだ。
テーブルの盤の上には開閉式のドームがある。降水量はそこで調節する。ドームは透明で、日光を遮らない。光の屈折率も計算されているらしい。テーブルの上に均等に日光が当たるようにドームを構成するガラス素材を工夫してあると聞いた。
テーブル同士で行き交う時には、ドローンで移動する。ドローンが出入りするゲートはテーブルの盤の横の方にいつも開いている。
ドームを遠くから見ると、多分、テーブルの上のクロッシュのように見えると思う。高級レストランで料理の上に被せる例のヤツだ。こちらがお料理です。ぱか。わぁ、美味しそう、ってヤツだ。
「イサギはイザナエルのこと、気にならないの」
「イザナエルは身体検査に通るのかな」
そうそう、今の問題はそこだよ。
「イザナエルは見た感じ健康そうだから、大丈夫じゃない」
「意外と病弱なところがあるから」
「そういえば、そうだけど」
そのとき天使が通った。
みんなで話しているときに、何故か全員が一斉に黙ってしまって静寂が訪れると、
「天使が通ったね」
と、僕たちはいっている。いつからそういいだしたのかは覚えていない。よその子どももそういうのかも知らない。大体、僕はよその子どもを知らない。
何千年もの大昔、この世界には『学校』なるものがあったらしい。子どもを集めて教育するところだったという。今、教育は通信により家庭で行われる。だから僕はよその子どもに会ったことがない。知っている子どもは、アメとイサギだけだ。イサギはフットサルスクールに通っているから、いつもよその子どもに会っている。アメは僕より内気だから、どこにも出かけない。よその子どもにも会ったことがないはずだ。
「イザナエルは身体検査にパスしないと思うの」
「え? 何故」
「躰のどこかの具合が悪いから、結婚するっていいだしたのよ」
「イサギ、心当たりがあるの」
「気がつかなかった?」
全く気づかなかった。アメもまたポカンとしている。イサギは女同士だから、イザナエルの少しの異変にも気づいたのだろう。そうか、そうだったんだ。僕たちの将来を案じて、イザナエルは結婚することにしたんだ。
イザナエルが書類上の僕たちの保護者だったけど、僕たちは実質イザナエルを保護していた。イザナエルはよく熱を出した。そうしたら僕たち三人は寝ずに看病した。
イザナエルは一二歳も年上だけど、どこか少女っぽくて危なっかしかった。外見もお姫様みたいだ。はちみつ色の金髪を長く伸ばして、緩いウエーブをかけている。服装もお嬢さんぽい服を好む。色も白くて、美人だ。イザナエルは、僕のお姫様だった。僕はずっと彼女のナイトをしていたつもりだった。後七年して独立することになったら、僕はイザナエルの夫になってもいいと思っている。
ここは子どもばかりの城で、子どもだけでやってきたのだ。ずっと四人だけで頑張ってやってきたのに。
イザナエルとバラバラになるかもしれない。良くても大人の男がやって来るかもしれない。どっちも嫌だ。イザナエルがいなくなるのも、イザナエルが変わってしまうのも、イザナエルが実の子どもを産むかもしれないことも、全てが嫌だった。
テーブルは遠くから見ると大きな木に見えたので『世界樹』と呼ばれている。
イザナエルは帰って来なかった。代わりに知らないおじさんが来た。お役所の人らしい。胸に『イセ』という名札を付けている。このおじさんがまた気に喰わなかった。
「セト イザナエルさんのお宅だね」
「そうです」
そっちも丁寧語くらい遣って欲しい。端から子どもを舐めているのがわかった。
「君はセトさんの御養子さんかな」
「セト ツクヨミです」
「悪いニュースなんだけど。イザナエルさんは、身体検査に通らなかったんだよ」
おっさんは間髪入れずに悪いニュースをいった。デリカシーがないのか。
「どこが悪かったんですか」
アメとイサギが玄関にやって来た。
「君たちのお母さんに悪い病気が見つかったんだ」
イサギが「やっぱり」と呟いた。
「だから、どこが悪かったんですか。何の病気なんですか」
「やめなよ、ヨミ」
イサギが僕の肩に手を置いて、静かに首を横に振った。
「彼女は下界で養生することになったよ」
「下界?」
イザナエルは、テーブルから降ろされるんだ。
「それでね、君たちの保護者が変わることになってね」
「ええっ」
アメが叫んだ。
「しっ」
僕とイサギが同時に指を口の前に立てた。
「三人一緒に次の保護者のところへ行けますか」
僕が訊いた。イザナエルと離れてしまっても、せめて子どもたちは一緒にいたい。これは訊いておかなければならないことだ。
「いや、三人は無理だよ」
「バラバラですか」
「ええっ」
またアメが叫んだ。すでに泣きそうになっている。
「男の子二人は一緒に行けるかもしれないね。でも、おじさんには決める権限がないから、今はなんともハッキリとはいえないね。」
「三人一緒がいい」
イサギがキッパリいった。できるだけ子どもらしくいったのだろう。演技したんだ。
「とにかく明日、またおじさんが迎えに来るから、荷物をまとめておいてね」
イサギがいったこと、無視か。
おじさんが去って行った。
「どうしよう」
アメはほとんど泣いている。
「イサギ、どうする」
こういう時、一番落ち着いているのがイサギだ。女は肝が据わっている。イサギは腕を組んで考え事をしているようだ。
「あたし、行く」
「別のところに養子に行くの?」
アメが恐る恐る訊いた。
「違うよ。イザナエルを追って行くの」
「ええっ」
アメがまた驚愕している。
「どうやって。下界に行くんだよ。テーブルから脱出しなきゃいけないんだよ」
今度は僕が訊いた。
「わかってる。あたし、方法を知ってる」
「どうやって? 大人でも行けないのに」
「子どもだから行けるんだよ」
やった、そうこなくっちゃあ。僕はイサギの目を見た。強い光が宿っている。こうなったらイサギは絶対、やる。
「ヨミ、一緒に行く?」
「行くよ。アメはどうするの」
僕はアメに訊いた。
「二人が行かなくても、あたし一人でも行くから。早く決めて」
イサギは勝手に話を進めている。
「どうして追って行くの」
アメがパニックになっている。
「病気のイザナエルを一人にしておくなんて、あたしできない。行って守ってあげなくちゃ」
「そうだね。僕も同感」
「ヨミは心が決まっているのね。なら荷造りして」
「荷造り? 待って、待って、二人とも」
アメは狼狽している。横で見ていてもわかる。
「通信機器は持って行っては駄目。GPSが付いているから、見つかっちゃう」
「わかった」
「えええ、じゃあ、僕も行く」
アメがバタバタして、今まで見たことのないような動きをしている。ダンスみたいだ。僕はアメが可哀そうになった。
「アメはここにいたら?」
「い、いや、いやだ。一緒に行く。絶対、行く」
大丈夫だろうか。
僕たちの住む世界樹は『エド』という名前だった。
僕たちは思いつく範囲で荷造りした。一錠飲むだけで一食分になるサプリと、昔風の方位磁石と、着替え。空気中の水分を集めて自動的に水を作り、いつも水が満ちている水筒。
「あまりたくさんは持っていけないからね」
懐中電灯や時計やテントや雨具はなかった。雨の日や夜は外出しないからだ。キャンプもしたことがない。どこかにはあったのかもしれないけど、見つけられなかった。荷物は一人につき小さいリュックサック一個になった。付け足しだけど、今思えば、このときカレンダーを持って行けば良かったんだ。
「過酷な旅になるかもしれないけど、覚悟はいい? 二人とも泣き言いわないでね」
イサギに釘を刺された。僕たち二人は無言で頷いた。
『エド』とは、『ジョウド』の対義語で、『この汚れた現実世界』という意味だ。
イサギは何もいわずに先に歩いて行った。
「何処から下界に降りるの」
「あのね、ここからは街の防犯カメラに映らないように歩いてくれるかな」
「どうやって」
アメは黙りこくって僕たちについてくる。
「カメラが向こうを向いたタイミングであっちから合図するから、来て」
「うん」
アメも声を出さずに頷いた。壁の向こうに防犯カメラがあるそうだ。なぜか、三六〇度映るタイプのカメラではないらしい。首を振るタイプなのだ。
イサギは素早く道を横断して一軒の廃墟に近づいた。壁の陰にしゃがんで、タイミングを見て僕たちに合図を送った。合図の度に僕とアメは一人ずつ中腰で道を小走りに横断した。
「よし」
イサギがイヌを褒めるように褒めてくれた。昼間だけど往来に人通りはない。この辺りは治安が悪くて人が近寄らない。こんなところに何があるんだろう。
イサギは廃墟の隣の古びた民家の庭に入って行った。
「こんなところに勝手に入っていいの」
イサギに近づいて子声で訊いた。
「いいの。静かに」
イサギは玄関を横切らないよう民家の庭の端を通って壁に近づいた。壁の向こうは廃墟だ。イサギが指差した。壁の手前の生垣の下に水路がある。蓋が割れて外れている。
「ここに入るの」
「え、やだ」
アメが小声で悲鳴を上げた。
「嫌ならお帰り」
イサギは水路に入って行った。
「行こう」
僕も水路に入った。水路に水はなかった。乾いている。水路は壁の向こうに続いていて、そっちも蓋が外れているようだ。つまり廃墟に入る訳だ。僕はイサギに続いた。でも、この廃墟はヤバいんじゃないかな。日ごろから人が恐れて近づかない処だ。確かギャングのたまり場になっているはずだ。
アメも続いて来た。
水路から出ると、廃墟の庭には子どもがたくさんいた。マンホールキッズと呼ばれる、身寄りがない子ども、ざっくりいうと、ギャングたちだ。ギャングたちは、廃墟の庭に放置されている古タイヤやブロック、廃材なんかにめいめいが腰かけて寛いでいる様子だった。廃墟は小さい町工場の跡地だと、以前、聞いたことがある。
ギャングたちは一斉に僕たちを見た。アメと僕は固まった。いきなり出くわしてしまった。
「よう、イサギじゃん、元気?」
ギャングの一人がイサギに声をかけた。イサギはギャングと知り合いなんだ。ギャングは年下のようだ。六歳くらいかな。多めに見積もっても八歳くらいだろうか。躰も小さい子だ。こんな小さい頃からギャングをやっているんだなぁ。どういう事情があるんだろう。でも、一人前の不良の風格があった。他の子ども達、つまりギャング達が僕たちを見ている。子ども達は本当に小さい子どももいれば、中にはハイティーンであろう、子どもとも大人ともいえない年齢の子どももいた。
イサギはなんでギャングと知り合いなんだろう。普段、家にいないことが多かったけど、フットサルスクールに行っているとばかり思っていた。一体、外で何をやっているんだ?
「頼みがあるの」
イサギがギャングにいった。
「何よ。水臭いな」
「お母さんが下界に追放されたから、あたしたちも下界に降りたいの。案内してくれない」
不良たちが口笛を吹いた。
「面白そうじゃねーか」
「案内してやれよ」
「そっちのなまっちろいのも行くのか」
アメを見ると顔面蒼白だった。
「この子たちは兄弟なの」
「死ぬかもしれないぜ。大丈夫か。お前ら」
僕のこともいっているみたいだ。自分の顔は見えないけど、アメと同じくらいビビッているように見えるのだろう。手足の先が冷たかった。
『死ぬ』と聞いてアメがビクッとした。
死ぬかも? 死ぬようなことしなきゃ下界には行けないのか。既に生きた心地もしないけど。
「いいぜ。来いよ。イサギ」
ちびっこギャングが僕たちを招いて、建物の中に入って行った。僕たちは後に続いた。
町工場跡の建物の窓には既に窓ガラスはなく、入り口の鍵も壊されていて、どこからでも入り放題だった。中はコンクリートで出来た駐車場のような感じだ。汚いテントがいくつかある以外は、ガランとしている。空気が冷たかった。
「ここから行けるんだ」
ちびっこギャングが指差した。建物の中央あたりの床にマンホールがあって、蓋が開いていた。
「入るから、後から来いよ」
ギャングが先にマンホールに入って、イサギが続いた。次に僕が入って、アメが後からついて来た。皆、押し黙っている。アメは不自然なくらい無表情だった。
中はすぐ足がついて、少し水が流れていた。こういうのが苦手な僕は、
「うえっ」
と、思わずいってしまった。綺麗な水だといいけど、いきなり暗いので確認できない。
「雨水だよ」
そういってちびっこギャングがライターで照らしてくれた。こういうものを持っていることに、ちょっと口出ししたくなったけど、その勇気はない。はっきりしないけど水は綺麗なようだった。
ギャングが進むとおりについて行った。すぐ大きな水路に出た。どんどん大きな水路に合流していって、下へ下へと下りていくらしかった。最後には天井が高くて、広い大きな神殿みたいなところに出た。神殿に水は無かった。
世界樹の上部、テーブルの盤の中に、雨水を溜めておくためのこういう場所があるというのは知っていた。どうやってそこへ行けばいいかを知らなかっただけだ。しかし、世の全ての学問というものはそういった傾向かもしれない。学んで知っているけど、そこへ行ったり、実物を見たりしたことがない場所、ものが増えていく。
イザナエルに初めて牛を見に連れて行ってもらったとき、僕は驚愕した。画像でみたことはあったんだ。でも、あんなにでっかい動物だなんて知らなかった。臭かったし。
世界樹の電力を発電する場所も盤の中にあるらしい。間違ってそこへ入れば感電したりなんだかんだになったりして死んでしまうかもしれない。死ぬかも、というのはこのことをいっていたのか、と思った。しかし、その想像は甘かった。すぐ後でわかる。
世界樹はテーブルの上を通る交通機関の運動エネルギーや位置エネルギーを使って発電している。つまり、テーブルの盤の上下振動を電気に換えている。
神殿みたいな貯水槽から階段を上がって、工事の人だけが使うような通路を通って、ちびっこギャングが突き当りの鉄のドアを開けた。
風がビュウビュウ吹き込んできて、正面に梯子が見えた。
「ここを下りたら下界だよ」
「ありがとう。感謝するよ」
イサギは梯子に移って下に下りて行った。次に僕の番だった。
「お前、絶対落ちるなよ。間違いなく死ぬぞ」
ちびっこギャングが脅した。ニヤニヤ笑っている。僕はちびっこギャングに苛立ちを感じて、その勢いで梯子にとりついた。そのとき下は見ていなかった。
その脅しはちびっこギャングの優しさだったのかもしれない。ワザと僕を怒らせたのかもしれない。梯子は世界樹の幹の横に取り付けられているものだった。何百メートルも自力で下りていかなくてはならない。下を見ると、梯子の先は下に見える雲の中に消えている。そして物凄く寒い。
急に怖くなった。深く意識せずに梯子にしがみつけてよかった。もう、何も考えずに梯子を下りることだけに集中した。目の前にでかでかと『死』という大きな文字がはりついていた。すぐさま手の平に冷たい汗が噴き出てきた。横風の吹き付けが凄まじい。手がかじかむ。僕は、アメのことさえも忘れていた。
死ぬかも、死ぬかも、死ぬかも……。
必死だった。修行僧のような心持ちで無心に梯子を下りた。途中で魂が僕の躰から抜けて、俯瞰(ふかん)で僕を見ているような、他人事みたいな気分になった。現実感がない。そうしてしばらく下りていると、視界が薄暗くなった。下界に生えている木の梢の下まで下りて来たのだ。世界樹の真下は森だった。
地面に足が付いた。
僕は草の上を這って、力尽きた。全身ガクガク震えている。
「アメ、大丈夫?」
イサギの声がした。世界樹の根元を見ると、アメが仰向けになっている。
落ちたのか?
僕は慌ててアメに駆け寄った。いや、這いずったんだか何だかよくわからない感じでアメに近寄った。アメは生きていた。数段だけ落ちたらしい。僕はアメと抱き合って、わんわん泣いた。生きていて良かった。僕が。アメが。
「二人とも大げさなんだよ。梯子を下りて来ただけでしょ」
イサギの言葉で白けて、瞬時に涙が乾いた。イサギには人の心がないのか。
イサギを怒ってやろうと思っていたのだ。あんな不良と仲良くするなんて。危険な事だ。道を踏み外す気かと。梯子を下りるまえには叱ってやろうと意気込んでいた。きつくいわなくては。でも、梯子を下りたことで全て忘れてしまった。
下界は綺麗なところだった。少し肌寒い。下界は亜熱帯のはずなのに。夕方近くは気温が下がるのだろう。数千年くらい樹齢がありそうな杉が森をなしていた。地面はふかふかの緑の苔で覆われている。木の幹には蔦が這っている。視界の八割が緑色だ。あちこちから鳥の声がする。
日が暮れようとしていた。金色の光の筋が幾つもくっきりと見える。霧状の水分が漂っているのも見えた。空気がみずみずしい。湿度がかなり高いようだ。
「綺麗なところだね」
アメが呟いた。
「毒なんて、見えないね」
そう。そもそも僕たちがテーブルの上で暮らしているのは、大昔に地表や海が毒で汚染されたからだと教わっている。僕たちが教わったことは、嘘なんだろうか。
「今夜はどこで寝ようか」
イサギが現実に引き戻した。
「野宿だよね」
僕が訊いた。
「下がふかふかで、どこでも寝られそうね」
僕たちは照明になるものを持っていない。日が暮れてから歩くのは危険なので、テーブルから降りていきなりここで野宿することにした。追手もないだろう。たったの子ども三人にそんなにかまける社会じゃないし。
世界樹の根元にエレベーターの入り口らしきドアがあったので、仮に人が出て来ても見つからないように、向こうからは見えず、こっちからは目が届く大木の裏の根元で休むことにした。寒いので、着替えをありったけ重ね着した。地面は苔でふわふわだったから、ビニールシートを敷くだけで、寝心地がいい。三人で寝転んで、しばらく話した。辺りが暗くなってきた。
「イサギ、さっきギャングに『イザナエルが追放になった』っていったよね」
「追放だよ」
「言葉が良くないよ」
「あのね、上の世界は、そういうところなんだよ。ヨミは世間知らずなんだよ」
「そうかもしれない」
イサギは世間を良く知っているのだろう。ギャングの知り合いもいるし。僕たち三人の中ではイサギが一番しっかりしていると思う。フットサルもやっているから、体力だってある。それによその子どもをたくさん知っているはずだから、社交的だ。
「イサギはプロの選手になりたかったんじゃないの」
アメが訊いた。フットサルは男女混合チームが普通だ。特別に女子チームがあるわけじゃない。男女で区別することは禁じられている。
「なるよ」
「上の世界から、降りてきちゃったら、なれないよ」
「なれるよ」
「ヨミだって学者になりたかったのに」
「ヨミだってなれるよ」
「僕も公務員になれるかな」
「なれるよ」
「降りてきちゃったのに」
アメの声が湿ってきた。
僕が割って入った。
「また、戻って来ようよ。イザナエルに会ったら」
「うん」
イサギもアメも同意した。アメが鼻をすする音がした。
そして夜が明けた。夜露が酷くて、躰が冷え切っていた。やっぱりテントが必要だ。どこかで入手できるだろうか。下界に店はあるんだろうか。
「このままだと躰を悪くするかもしれないね」
「うん」
三人とも口数少なく準備した。上に重ねて着ている物を脱ぐと、やっぱり寒い。厚着したまま行くことにした。
「しっ。エレベーターが動いている」
三人隠れて様子を見ていたら、エレベーターから二足歩行ロボットが出て来て、走って行った。
「西へ行った」
イサギがコンパスを見ながらいった。
「西になにかあるのかな」
「七三の髪のおっさんと、パーマのおっさんが乗っていた」
「イサギの動体視力が凄い」
さすがフットサルで鳴らしただけはある。
「あたしたちも西へ行こう」
「どうして」
「エドはこの島の東の端にあるの」
「知らなかった」
「世界樹の上でリタイアした人の村が、島の西の端にあるって聞いたことがあるの」
「どのくらいの距離なのかな」
「それはわからないけど」
「でも、とりあえず、西へ行ったらいいんだね。簡単だ」
僕たちはコンパスに従って西へ歩き始めた。
とにかく歩いて行けばいいんだ。と、歩きだしたのはいいけど、これがなかなか大変だった。僕とイサギが二足歩行ロボットの作った轍(わだち)というか獣道(けものみち)を歩き始めると、アメが道から逸れて歩き始めた。
「どうして、そんなところを歩くの」
僕が訊くと、アメが、
「ロボットに見つかっちゃうよ」
と、いった。
「大丈夫だよ。すぐ隠れたら」
僕がアメの来るのを待っているとアメはおしっこを我慢するようにもじもじして、
「叱られちゃうよ。嫌だよ、僕、そんなの」
と、いった。僕はいきなり衝撃をくらった。イザナエルに会える前に連れ戻されることより、アメは大人に叱られることの方が怖いのだ。いやいや、いつものことながら、呆れる。イサギはどんどん先に行っているので僕もイサギを追った。
「わっ」
アメの声がしたので、アメの方を向くと、アメが消えていた。
「イサギ、アメがいない」
イサギと戻ってアメを探した。アメは自分の背丈と同じくらいの深さの穴に綺麗にはまっていた。落ちたらしい。
「アメ、ケガしてない?」
「多分、大丈夫」
イサギと二人でアメを引き上げた。くじいたりもしてないようだ。
「ちゃんと道になっているところを歩いて」
イサギが目をつり上げたので、アメも道を歩きだした。
とにかく歩き続けた。歩いて行けばいつかは辿り着くと簡単に考えていたけど、これが思うようにいかない。一日にどれほども進めなかった。イサギはフットサルをして鍛えていたからどんどん歩けたけれど、僕とアメは、すぐに足に豆が出来て、歩けなくなった。すぐ休憩に入らなければならない。それに一日に一回はスコールが降る。すると、また、陰に入って休憩しなければならない。下界は亜熱帯のはずなのに、けっこう寒かった。じめじめして、僕たちの服は、いつも湿って重かった。泥でドロドロに汚れるし、躰が冷えて体調も優れない。こんなことだけで、すぐ僕たちはピンチになった。アウトドアの趣味をたしなんでおけばよかった。イザナエルに会う前に、行き倒れるかもしれない、と本気で思った。
「今日、何曜日かな」
「アメ、それはいったらダメ」
イサギに聞こえたら、彼女が爆発するから。
カレンダーを持って来るべきだった。もう、何日こうしているのか、すぐわからなくなってしまった。イサギは数えているようだったけど、アメと僕があまりに訊ねるので、彼女は苛立っていた。今日で歩き始めて何日目かという疑問がタブーになった。
僕たちは黙って、歩き続けた。
「あっ」
イサギが何かに気づいて走って行った。
「え? イサギ」
僕が見ていると、数人の人影が見えた。
「人だ」
降りて来て初めて人に会う。数人で、ボールを蹴っているようだ。サッカーかフットサルをしているのだろう。木々の間に平らな広場みたいなところが見えた。
イサギは、その人たちに話しかけて、驚いたことに一緒にゲームに加わったようだ。
「本当かよ」
イサギの行動力にビックリした。しかし、下界も日本語が通じるんだ。僕たちは情けないことに日本語しか話せない。
イサギの代わりに抜けた人がこっちに歩いて来た。一五、六歳くらいだろう、とりあえず子どもだった。
「お前ら、エドから来たんだって」
僕たちに話しかけてきた。
「は、はい」
「よく来られたね」
僕は緊張した。そして子どもに違和感を持った。アメが「あれ」とかいっている。アメの声の意味には後で気づいた。その子どもは手の指が六本あったのだ。
「ここは『過剰の村』っていうんだ。俺の名前は『アシオ』お前らの名前は」
「セト ツクヨミです。みんな、ヨミって呼んでいます」
「僕はセト アメヒコです」
「アメって呼んでいます」
「丁寧語はいいよ」
アシオはニコッと笑った。人懐っこい笑顔だった。
「今晩、うちに泊まれよ」
アシオに手招かれてついて行った。外国人みたいな手招きの仕方だった。なんだかカッコいい。聞くところによると、アシオは僕たちと同い年(一一歳!)らしい。信じられない。背が高くて、骨格ががっちりしていて、筋肉が発達していて、同い年とは思えない。僕たちはアシオに比べると、小さくて白くて、柔らかそうだ。恥ずかしくなった。
指が六本の人には初めて会った。でも、イサギとフットサルだかなんだかやっている他の子どもも皆指が六本ある。何が『過剰』なのか、わかったような気がする。神様だと思った。どこかの国で指が六本ある人は神様だと思う地域があると、本で読んだことがある。ここは神様がいる村なんだ。
アメが僕に耳打ちした。
「毒の影響なのかな」
「さあ。僕にはわからない」
下界を汚染した毒は生物の変異を促進する性質もあるらしい。でも、そう考えるのは失礼な気がした。
「僕も下界にいるうちに指が増えるのかな」
「やめろよ。この話は終わり」
アシオに促されて、イサギがフットサルをしている広場を抜けると、村があった。イサギが僕たちの行動に気づいて、フットサルをやめて僕たちについてきた。
村に入ると、子どもと女の人ばかりがいた。女の人二人が立ち話している方へアシオが近寄って行って話しかけた。
「母さん、こいつらエドから来たんだって」
「ええ? エドからここまで? 本当に? こんな小さな子が?」
太った若いオバさんがこっちを見た。
「今日、こいつらをうちに泊めるから」
「エドからだなんて。まあまあ、じゃあ神様じゃないかい」
神様? さっき僕が考えたこととリンクするような気がした。
「ごめんな。俺らは上の世界の人間を『神様』っていっているんだ。気にするなよ」
アシオが僕とアメに説明してくれた。嫌な感じはしない。実際、その後僕たちは、下界の人に嫌な事なんて全くされないのだ。すごくいい人たちばっかりと会うことになる。
「そんな御大層な身分じゃないですよ」
僕は恐縮してそういった。
「こんなに小さいのにどうしてまた降りて来ちゃったの」
太った若いオバさん、アシオのお母さんは、僕たちに駆け寄ってハグしてくれた。大きなお布団に包まれたみたいだった。何故か、少し涙が出た。
「お母さんが、下界に降ろされちゃったから、追ってきたんです」
「まあっまあ。お母さんと離れ離れになっちゃったの? それで、追いかけて? まああ、可哀想に」
オバさんは僕からもらい泣きしている。知らない間に僕もオバさんのハグにじんときてそのまま泣いてしまったから。
「こいつら俺と同い年だって」
「えええ、ちゃんとご飯食べていたの?」
「降りて来てからは、サプリで済ませています」
「えええ、そんなんじゃあだめよ。じゃあ、今日は御馳走にしようね」
アシオのお母さんは、腕まくりした。
「じゃあ、ハナさん、私はこれでね」
アシオのお母さんと話していた女の人が去って行った。アシオのお母さんの名前はハナさんというらしい。
「ああ、メメさん、それじゃあまたね」
ハナさんが、女の人に挨拶をしてこっちを振り向いた。小さい男の子と女の子が走り寄って来てハナさんのスカートを掴んだ。アシオの弟と妹で、テオとミミというそうだ。二人は五歳で双子らしい。
「ここがうちだよ。さあ、お入り」
アシオのうちには広い庭があった。
「うわっ」
アメが僕に飛びついてきた。大きなニワトリが庭にたくさん放し飼いされていたからだ。
「すごく大きなニワトリですね」
僕の遠近感が狂ったのかと思うくらい大きなニワトリだった。脚が三本ある。脚が三本ある鳥は、神様の遣いだったのではないだろうか。そんな話も本で読んだことがあるような気がする。
「ああ、トリにしようかね。一羽、絞めようか」
「にわとりだー」
「にわとりだー」
テオとミミが喜んでいる。トリを食べられるのが嬉しいみたいだ。
「トリ絞めるんだって、どうやるのかな」
イサギが興味津々だった。僕の袖を引っ張って来る。
「あたし、そんなの見るのは初めて」
ワクワクしているようだ。そんなの見たいのだろうか。僕は嫌だ。
そのトリの絞め方がダイナミックだった。今でもときどき夢に見る。
ハナさんは鉈を持って来て、いきなりそばのトリの首をはねたのだった。一瞬だった。あまりのことに、僕は何が起こったのかわからなかった。トリは首が無いまましばらく走り回って倒れた。ハナさんはトリを拾うと家に入って行った。
「三人にはももを焼いてあげようね」
テオとミミがスキップするように跳ねながらハナさんの後についていった。アシオもケロッとしているし、日常のことなのだろう。僕とアメは、唖然としてしまった。
「トリって、首がなくても走るんだね」
イサギはアシオにキラキラした目で話しかけている。
「知らなかった?」
アシオが普通に返している。
ハナさんは約束どおりトリの脚のローストを僕たち三人に振舞ってくれた。スパイスがいっぱいかかっている。普段なら美味しそうと感じるだろう。イサギがまた目をキラキラさせて、
「美味しそう」
と、喜んでいる。
「たくさん食べなさいね」
ハナさんがニコニコしている。
「いいなー」
「いいなー」
テオとミミがうらやましそうだ。
「テオとミミには親子丼があるよ」
ハナさんが料理をどんどん食卓に並べてくれている。
「おやこどんー」
「おやこどんー」
二人は、それはそれで満足なようだ。
「さあ、どんどんお食べよ」
ハナさんも食卓についた。目の前には本当に御馳走が並んでいる。
「いただきます」
イサギがトリの脚にかぶりついた。僕とアメは、手が伸びない。胃が搾り上げられるみたいになっている。さっきの首なしトリが走り回る光景が頭にこびりついてしまった。
「食べないの」
イサギが不思議そうにいった。
「テオとミミにあげるよ」
そういうのがやっとだった。
「くれるのー」
「くれるのー」
アメも同じだったみたいで、
「僕のもあげる」
と、いってトリのももの皿をテオとミミの方に押しやった。
やったーといって、テオとミミが飛び跳ねた。
「いいの。お前ら」
アシオが不思議そうに聞いた。
「急なご飯が受け付けないみたいで。すいません。さっきから、ちょっとお腹の調子が悪くて。いてて」
「大丈夫か?」
「あ、あの、お粥みたいなものがありましたら」
もそもそいうと、ハナさんが「まああ」といって、潤んだ目をして、
「サプリなんて飲んでいるからよ。躰が環境の変化に追いつけないのね。可哀想に。すぐお粥にしてあげるからね」
と、いって僕とアメのご飯を持って台所へ入って行った。
アシオはテオとミミに、もも肉を分けてやっている。
「全部は食べられないよ、大きいから。お兄ちゃんと分けっこだよ」
「骨のところがおいしいのー。骨の方がいいー」
テオとミミは肉がたくさん残っている骨に直にかぶりついた。もも肉を持って踊りながら食べている。子どもはじっとしていないものだ。少し切り取った肉をアシオが箸で食べている。
「お父さんが送って来たお米だから美味しいよ」
ハナさんがアメと僕にお粥と梅干と白菜の漬物をだしてくれた。
「お米が丸っこいね」
アメが気づいた。
「お父さんは北の島に出稼ぎに行っているのよ。北の島でできるお米なの」
食べてみると本当に美味しい。こんなお米は初めてだ。もちもちしている。夢中で食べた。結局、アメも僕もお粥をお代わりしてしまった。梅干しも漬物も物凄く美味しい。
「たくさんお食べよ」
ハナさんが嬉しそうだった。味噌汁もくれた。それも美味しい。
「味噌が違う」
もも肉を食べ終わってイサギが味噌汁を飲みながらいった。
「粕汁、飲んだことないかい?」
「甘酒みたい」
イサギは粕汁をお代わりしまくった。根菜がいっぱい入っていて、健康にもよさそうだ。
「この辺りも、昔は鉱山なんかがあって、男の人が働いていたけど、どういう訳か途中で鉱山を掘ったらいけないことに決まってね。出稼ぎに行かないといけなくなったんだよ」
それで村に男の人がいなかったんだ。
「お母さんは、どうして上の世界から降ろされたんだい」
僕が代表して答えた。
「病気になったんです」
「そんなことで降ろされるのかい」
「決まりなんで」
「怖い処だね」
「そうでもないです」
「お母さんのお仕事はなんだったの」
「主婦ですよ」
「お父さんはどうしているの」
「お父さんはこれからできるはずだったんです」
「ええ?」
四人が目をぱちくりさせてこっちを見た。
「世界樹では、子どもを育てることが仕事なんです。AIが仕事をしてくれるから、人が働かなくていいんです。税金もAIが払ってくれます。でも、なかには働いている人もいます。人は、子どもを育てると政府から補助金がもらえて、それで生活ができるんです。僕たち家族四人は、みんな、血がつながってないんです。でも、イザナエルは僕たちのお母さんだし、僕たちは家族なんです」
ハナさんが黙って代わる代わる僕たちの頭を撫でてくれた。
「無事にお母さんに会えるといいね」
アシオがいった。
「温泉に行っておいで」
ハナさんが洗い物をしながらいった。
「温泉があるんですか」
「みんなで行こうぜ」
アシオが案内してくれた。村の家にはお風呂がなくて、みんな共同浴場へ行っているらしい。そこは温泉が湧いているのだ。
混浴だった。僕たち六人の他には人がいなかった。早い時間だったからのようだ。僕は恥ずかしくて、恥ずかしくて、湯の中で小さくなっていた。
僕は、アメの裸すら今まで見たことがなかった。イザナエルは、僕たちを個人として育ててくれた。そういう方針の人だった。家族だけど、将来は他人になる予定の家族だったからだ。だから、イサギがテオとミミと裸できゃあきゃあいって遊んでいるのなんて、気がしれない。イサギの今まで見たことがない面をたくさんみることになった旅になった。
アメももじもじと僕から少し離れて湯につかっていた。アシオが横にやって来た。
「洗濯しようぜ」
「洗濯?」
「そこに洗い場があるから」
見ると躰を洗うのと雰囲気が違う空間がある。洗濯物を温泉で洗うといいらしい。アシオが前もって出かけるときに、服を全部持って来るように僕たちにいってあった。
服は踏みつけて洗った。三人分しっかり洗った。
「ちょっと匂いと色がつくけど、それもいいから」
脱衣場に乾燥機があって、そこで乾かした。洗濯物は少し生成り色になったけど、ふんわりしていい匂いがした。村の人はみんなここで洗濯しているらしい。これで、また元気に歩けるだろう。良かった。
夜はぐっすり眠れた。疲れと久々のお布団と、温泉の効果で本当によく休めた。
翌朝、ハナさんは鮭を焼いてくれた。お父さんが送ってくれた塩鮭だそうだ。よく考えたら、貴重なものを奮発してくれているのではないだろうか。悪いなと思いつつも、僕たちはご飯をおかわりしまくった。味噌汁とたくあんも出してくれた。もう、もりもり食べた。何もかも美味しすぎて、困った。アシオがニコニコしていて、ミミとテオが口をあんぐり開けてみていた。僕たちが食欲旺盛にしているとハナさんも嬉しそうだ。
「お前ら、元気になったな。昨日は今にも死にそうだったぞ」
「おかげさまで」
「気にするな。どんどん喰え」
アシオが僕の背中をバンと叩いた。
出かける前に、ハナさんが村中の人に声をかけて、足りない装備を整えてくれた。予備の着替えと雨具とウィンドブレーカーみたいな上着と山歩き用の靴と靴下と手袋(指が六本あるんだけど、使える)、テント、寝袋三人分、それを入れるための大きめのリュックサック。荷物は三人で分けて持つ。テントはアシオのお古だ。森の中で野宿するために買ったらしいけど、新しいのを最近手に入れたので、不要になっていたものをくれた。
ハナさんは防犯ブザーもくれた。
「イノシシが出ると怖いからね。無いよりましだよ」
「あっちが逃げるんじゃない」
アシオが呑気にいった。
「一度、捕まえそこなったイノシシは狂暴だからね。木に登って逃げるんだよ。イノシシは弱点がないから」
「弱点はあるよ。こめかみが弱点らしいよ。石とか拾って殴りつけたらいいよ」
アシオはそういうけど、僕たちはドキドキした。アメも僕も登り棒すら登れないのにどうするんだ。石で攻撃とかありえないし。
「クマもいるかね」
「クマは絶滅したんじゃない」
アシオがまたのんびりいった。
「クマに会ったら、高い方へ逃げるんだよ。クマは前足が長いから、高い方へ走るのは苦手なんだよ」
「俺、今まで森では結構野宿したけど、イノシシにもクマにも会ったことないよ」
「心配だよ。送って行ってあげたいけど、今、村には、ロボットが出払っていて一台もないからね」
「母さんは心配し過ぎ。まるで脅しているみたいだよ」
アシオは僕の肩を叩いていった。
「お母さんに会えたら、知らせろよ」
僕たちは出発した。
防水の上着を着ていると全然違う。靴もいいのをくれたから百倍くらい元気に歩けた。服からは温泉のいい匂いがした。その度にアシオたちのことを思い出して、胸が温かくなった。
夜はテントで眠った。快適だ。おにぎりも持たせてくれたから、夕飯に食べた。いい人たちだったなぁ。テントは三人でぎゅうぎゅうに眠った。でも、この方が、安心感がある。
アシオがテントで森の中、一人で野宿しているところを想像した。絵になる。彫刻みたいにみえるだろう。何でこんなに体格が違うんだろう。アシオの躰は、中身がよく詰まっているようだった。骨も堅そうだ。それとは別の話だけど、僕にはイサギとアメの二人に黙っていることがあった。
アシオが送り出してくれたとき、額の前髪の中で目が瞬きしたのを見たのだ。アシオは額に、もう一つ目があった。村の人みんなにあったのだろうか。よくわからない。外国には三つ目の神様がいたはずだ。やっぱり、あの人たちは神様だと思った。
それからというもの僕の話はアシオ一色だった。初めて友達ができて、舞い上がっていたのだと思う。
アシオはあの時、こういったよね。
アシオだったら、どうするかな。
アシオはかっこよかったな。
僕はほとんどアシオを崇拝していた。イサギもアメも黙々と歩きながら、僕の話をさえぎらないでいた。僕はあの村を出て以来、やたらハイテンションだった。大きな声で話し続けた。クマよけにはなっただろう。
「あの人たちは、優しかったな。神様みたいだったよね」
イサギは、もう五日間ぐらい僕の話を聞いた末にこういった。
「むやみやたらと神聖視するのは、おかしくない? 差別しているのと同じことだと思うんだけど。ヨミの心の中で差別と同じ方向の心の働きが起こっていると思うの」
イサギに忌憚のない意見をもらって、僕はぱったりアシオの話はやめた。
それから僕たちはいくつかの沢を越えた。歩いていくと、周りの茂みから細かい青白い毛の生えた羽虫が無数に飛び立って辺りを漂う。よくわからない虫の声もあちこちから聞こえる。
僕たちは歩いて、歩いて、歩きまくった。どのあたりまで来たのだろう。イザナエルがいる村にはたどりつけるのだろうか。それとも行き過ぎてしまったのだろうか。
不穏な気配がした。気が付くと、金色と緑色の毛を生やした顔の赤いサルに取り巻かれていた。しまった。
顔を動かさずにお互い喋った。
「どうしよう、イサギ」
「そうだね」
アメが固まっている。まずい。
「アメ、目を合わせたらいけないよ」
「ええええええ」
まずい。アメがサルを刺激するかもしれない。
「うらああああああ」
イサギが傘を開いて盾にしながら、防犯ブザーを高らかに鳴らしつつ、サルの輪に突っ込んで行った。
「イサギ!」
サルはビックリして散り散りに去って行った。
「行こう」
イサギが走ってきていった。
「イサギ、危険なことしないで」
「今のうちに行こう」
三人でその場を走って去った。
「危なかったね」
息を整えていると、アメのすねにミミズが立っているのが見えた。
「ミミズが立ってる」
僕がつぶやいた。
イサギが叫んだ。
「ヒルだよ!」
イサギが六本指の分厚い手袋をつけた手でヒルを払った。余った指が揺れているのがスローモーションで見えた。地面からどんどんヒルが出て来て脚を登ってくる。
「逃げよう」
たくさんのヒルを振り払ってそこも走り去った。走るのもスローモーションになっているように感じた。地面が緩くて走りづらいからだろうか。
僕たちは今まで無防備過ぎた。よくここまでもったものだ。
そこからどんどん上り坂になった。テーブルの上はあまり坂が無いから、キツかった。登山している状況で丸一日くらい上り坂を登り続けた。登山だってそれまでやったことがなかった。でも、体力がついてきたのか、なんとか登り続けられた。ようやく平地になったら、また、村があった。
「村だね」
「やっと村があった」
僕たちは顔を見合わせて安堵した。躰を休められるかもしれない。イザナエルがいるかもしれない。
村の入り口は、過剰の村と大差なかったけど、村の中へ入ると、村というより町だった。お洒落な店がたくさん並んでいる。民家もある。住宅街と商店街が組み合わさったような町だった。でも、誰もいない。商店も閉まっていて、民家もひっそり静まっている。
「誰もいないね」
アメが呟くようにいった。
町に入ってすぐ上部がアーケードの大通りがあって、その下に長テーブルがずっと町の奥まで一列に並んでいた。
「なんだろうね、ここ」
イサギも呟いた。自然に声が小さくなる。静かすぎる町だ。
イサギがすぐそばの民家のドアをノックした。
「うわっ」
僕とアメがびっくりした。
「やめなよ、イサギ」
ノックの音が通りを響き渡った。ドキドキした。誰も出て来ない。
僕たちは歩道にあるベンチで眠ることにした。疲れ切っていたからだ。
歩道は煉瓦が敷き詰められていて、とても綺麗だ。街路樹も植えられていて感じがいい。それに落ち葉なんか落ちてなくて、掃除が行き届いている。人の存在を感じるから、不思議だった。どうして誰もいないんだろう。
何時間くらいが過ぎたのだろう。
「バタン、バタバタ」
急にドアが開け閉めされる音があちこちから聞こえた。その音で起きた。
「おはようございます」
「あら、おはよう」
「ホホホホホ」
「フフフフフ」
女の人達が民家から出て来て、談笑したり、挨拶を交わしたりしながら、向こうの方へ走って行った。辺りは夕方の気配だった。
「おはようございます」
一人の女の人が僕たちに声をかけてきた。
「君たち、さっき、ノックした? 旅をしているの?」
僕たちは、事態がよく呑み込めず、そして寝ぼけていた。
「はい、エドから来ました」
「まあ、エドから。今からご飯を作りますから、一緒に食べていけばいいわ」
「あ、ありがとうございます」
女の人は、イサギがノックした民家の奥に声をかけた。
「あかり、ヒカル、お客さんよ」
僕たちは、夢を見ているのかと思った。みんな、光っていたからだ。向こうへ走っていった女の人たちも、目の前の人も、みんな発光している。肌が光っている。
「ここは、『宵っ張りの町』というのよ。私たちの一日は今から始まるの。あかり、ヒカル!」
民家のドアから、子どもが二人顔をのぞかせた。やっぱり光っている。
「あなたたちがさっきノックしたの?」
女の子がたぶんあかりちゃんだろう。おねえちゃんらしい。ヒカルくんの方が年下だとわかる。あかりちゃんは、僕たちと同じくらいの年齢に見えた。
いい匂いが流れてきた。
「いけない。ご飯を作りにいかなくちゃ。お母さん、行くからお客さんをおもてなししてね」
女の人は、あかりちゃんとヒカルくんに僕たちを託して行ってしまった。
「町の人たちは、みんなでご飯を作って、みんなで一緒に食べるの。三人くらい増えても平気よ。一緒にご飯を食べて行って」
あかりちゃんが説明してくれた。
「ありがとう」
ドアからスーツを着こなした英国紳士みたいな男の人が出て来た。
「おや、お客さんかい?」
「お父さんよ」
あかりちゃんが紹介してくれた。
「ライトといいます」
紳士が丁寧に帽子を脱いで、あいさつしてくれた。見事に禿げ上がっている。そして輝いていた。体格も良くて、立派な地位の人に見える。
「なんか」
アメが僕に耳打ちした。
「中世のヨーロッパみたいな恰好した人ばかりだね」
イサギも僕に耳打ちしてきた。
「みんな、鹿鳴館って感じ」
それは、ちょっと違うかな、と思った。
夏目漱石か、森鷗外か、ミレーの落穂拾いかな、と思う。だと、二人がいうのと同じか。
ヒカルくんは、人見知りする人なのか、どこかへ行ってしまった。あかりちゃんは、イサギと話が合ったみたいだ。イサギって、不思議だ。女の子と二人でお喋りしている。そういうことができる子だったんだ。
ライトさんは、僕たち二人の相手をしてくれた。
「このあと、畑に行くのですよ。見学でもいかがですか」
「あ、はい」
「どちらから来られたのですか」
「エドからです」
「子どもさんだけで?」
「はい。お母さんに会いに行くんです」
「子どものうちに冒険しておくのはいいことだと思います。無事、会えたらいいですね」
「ご飯ですよ」
女の人達が、テーブルに料理を並べ始めると、民家からぞろぞろ人が出て来て、テーブルに着き始めた。やっぱりみんな光っている。みんなが光っているのは、便利だ。みんなが席に着くだけで、照明もないのに明るい。面白いな、と思った。
「お客様もどうぞ」
ライトさんが、僕たち三人の席を確保してくれた。御馳走だった。ローストビーフとサラダとチーズとパンとスープ。ここは日本じゃないのかと思った。レモンの輪切りが入った氷水のピッチャーも近くに置いてくれた。
食事の前に全員がお祈りを始めた。びっくりした。お祈りの言葉がある訳ではなかった。一斉にみんな黙って目を閉じて、手を合わせて黙祷していた。三分間くらいだろうか。
そしてとても静かな夕食が始まった。
ライトさんが説明してくれた。夕方に町人全員で夕食をとり、夜通し働いて、明け方にまたみんなで朝食をとって、眠りにつくらしい。不思議だ。
料理はとても美味しかった。
「お母さんはどうして遠方へ行かれたのですか」
ライトさんも町の人もとても静かに話す。
「病気で、療養することになったんです」
「それは大変な」
町の人たちが静かにどよめいた。
「感心な子供たちだ」
それほどのことでもないと思うけど、美談として扱ってくれている。上品な人たちだと感じた。少し自分が恥ずかしくなった。何を恥じているのかはわからない。
食事の後、完全に夜になってライトさんは、約束通り僕たち三人を畑に連れて行ってくれた。農作業服までびしっと決まっていて恰好が良かった。ライトさんは姿勢がいいから恰好がいいのだろうか。長靴も泥なんてついてなくて、よく磨かれたようにツヤがあった。
畑には大きなキャベツが整列していた。どのキャベツも綺麗で、清潔そうだ。
「こうして、キャベツが眠っているときにそのまま収穫するとみずみずしくて美味しいのです」
確かに美味しそうなキャベツだ。
「とても甘いのですよ」
「キャベツを起こさないでね」
あかりちゃんもひっそり話す。みんな内緒話みたいに話している。
畑も、ライトさんとあかりちゃんがいるだけで、煌々と明るい。感情で光の感じが変わるみたいで二人は仕事モードに緊張しているのか、冷たい明るさだった。白っぽい光だ。食事のときはみんなオレンジ色っぽい光だった。
ひとつキャベツを収穫してみせてくれた。ぴかぴかの鎌みたいな器具でさっと刈り取った。音もでなかった。キャベツは確かに眠っているようにみえた。そして、多分いい夢をみている。
キャベツを少し試食させてくれた。みずみずしくて冷たくて、甘い。美味しいキャベツだった。
「あかり、町でみんなと遊んできなさい」
ライトさんは、静かにいった。
「はい。行こう」
あかりちゃんについて町に戻った。畑から出る時に、ふとライトさんの長靴を見たけど、やっぱりツヤツヤだった。土なんてついてない。不思議だ。
町に戻ると、ヒカルくんが他の友達と遊んでいるのが見えた。僕たちは嫌われたみたいだ。あかりちゃんは、イサギとやっぱり二人でお喋りをしている。変な気がした。イサギが女の子みたいだ。お喋りなんてするんだ。
僕はアメと、黙って靴屋の前のベンチにいた。橙色の明かりの中で靴屋が靴を作っているのを見ている内に眠ってしまった。
起こされた。
「朝ごはんですよ」
あかりちゃんのお母さんだった。
(あかりちゃんのお母さんの名前は『テルヨ』さんとか、『トウカ』さんとか、いうそうなのだけれど、説明をうかうか聞いていて、よくわからなかった。アメは「トウカさんだよ」というし、イサギは「テルヨさんっていったよ」というし、混乱している。でも、イサギはずっとあかりちゃんと話していたし、イサギのいうことが合っているような気がする)
やっぱりお祈りをして、食事になった。みんなひそひそと歓談している。
メニューは、ステーキとサラダとパンとスープで、ステーキはビーフとチキンをいくらでもお代わりしていいらしい。パンもいくつ食べてもいい。サラダも。
でも、僕は恥ずかしいから、お代わりはしなかった。イサギまで、この町では大人しくしている。不思議だ。町の人たちもみんな小食だった。
アメは終始ぼんやりして、なにも考えていないように見えた。逆に緊張しているのかもしれない。この町の雰囲気が合わないのだろう。僕もお尻がムズムズするような感じがする。みんないい人なのだけど。
「それじゃあ、おやすみなさい」
町のひとたちが食事を終えて、民家に戻って行った。みんな、ベタベタせず、とてもきっぱりさっぱりした人たちだ。
あかりちゃんが、懐中電灯やLEDランプをくれた。これで夜も便利で安心だ。助かった。ありがたい。
「それじゃあ、気をつけてね」
「ご無事をお祈りしていますよ」
「おやすみなさい」
あかりちゃんと、ライトさんとお母さんが、挨拶してくれた。ヒカルくんは、さっさと引っ込んで、いなかった。
そしてドアが閉ざされて、町はまたひっそりした。
夢の中の町のようだった。
しばらく、また、森の中を歩いていた。
「私、さっきの町に残る」
イサギが突然びっくりするようなことをいった。
「なにいってんの」
僕はとめた。
「イザナエルに会ってから、戻ってくれば」
アメが説得した。
「そうね。そうする」
さっきの町以来、イサギが大人しくなった。不思議だ。
思えば、僕もアシオに会って以来、ごちゃごちゃ考えごとをあまりしなくなったような気がする。僕たちはこの旅で、変わりつつあった。
「昔、こんな話があったじゃない」
「どんな」
アメが訊くとイサギが話し始めた。
「黄泉の国に行った人が、黄泉の国の食べ物を食べると、現世に帰って来られなくなるって話」
「それがどうかしたの」
アメが不思議そうに訊いた。
「あたしたちも上の世界に帰れなくなるかもね。下界の食べ物を食べたから」
「えっ」
アメが本気で驚いている。
「気味の悪いことをいうなよ」
僕はアメをかばうようにいった。
「どうにしろ、帰れなくなっても構わないじゃない」
イサギがケロリとしている。
「僕は困るよ。公務員になりたいんだもん」
アメがげんなりしている。
「アメ、本気にするな。帰れるよ」
それからしばらく僕たちは黙って歩き続けた。
しばらく森の中を歩くと赤いゲートがあった。これは『鳥居』というものではないだろうか。ゲートの奥に大きな木造の建物もある。
「どこいくの」
建物の前に女の子がいた。その子に声をかけられた。
「西の方へ行くよ」
僕は答えた。
「ついていっていい?」
「いいよ」
女の子は赤い服を着ている。これは『着物』という服じゃないだろうか。
女の子は黙って僕たちについてきた。
半日ほど歩くとまた赤いゲートがあった。
「ここまででいい」
女の子はそういって、赤いゲートの奥の木造の建物に入っていった。
「さよなら」
「さよなら」
僕も挨拶を返した。
イサギとアメが変な表情をしている。
「ヨミ、変ね」
僕はきょとんとした。
「何が変なの。さっきの子?」
「さっきの子?」
イサギの返事が変だ。
「誰のこと?」
「え」
半日も一緒にいたのに、イサギもアメもさっきの子が見えていなかったらしい。
「うそ」
今度は僕がびっくりしてしまった。さっきの子は一体なんだったんだろう。
二人に詳しくさっきあったことを説明した。
「あー、ヨミは本物に会っちゃったんだよ」
と、イサギがいった。
「何の本物?」
僕が訊いた。
「本物の神様に会っちゃったんだよ。神様の引っ越しに付き合ったのね」
「う」
そういわれると、そのような気もしてくる。
「それは、いいことなのかな」
「さあ。知らない」
無責任な。いいよ、どうせ他人事だよ。
しばらく行くと、森を抜けた。なだらかな緑の丘が広がっている。白いごつごつした岩があちこちに突き出ている。晴れていた。
丘の両側は山の稜線が続いている。
イヌがたくさんの羊を追っている。人はいなかった。羊を飼うのも、AIまかせではないようだ。イヌが賢くてびっくりした。下界は違うね。白いものが岩なのか羊なのか、瞬時には判別がつかない。こういった景色がずっと続いているようだ。
「綺麗ね」
イサギの目に青い空と緑の丘が映っている。
「向こうに世界樹があるよ」
アメが指差した。
「よその世界樹ね」
「向こうからこっちは見えるのかな」
「見えないと思うよ」
僕が答えた。
イザナエルにエドの世界樹の端に連れて行ってもらったことがあった。ダムみたいに高い丸くくぼんだ壁があった。イザナエルの身長の五倍くらいの高さの壁だった。壁の上はガラスのドームだ。
「監視塔みたいのはあるんじゃないかな」
アメがいう。僕たちは山歩き用の蛍光ピンク(イサギ)や蛍光オレンジ(僕)や蛍光イエロー(アメ)のウィンドブレーカーを着ていたから目立つと思った。
「さすがにここで連れ戻されたら、がっかりだね」
そうはいいつつも心は平静だった。僕たちは、心が強くなってきたようだ。いままでの旅で成長したのだろうか。見つかったらそのときはそのときだと思った。そのときはなんとかしよう、と思った。どうとでも、できると思う。できるようになったんだ。
そこから、ずっと下り坂になった。また、丸一日くらい下り続けた。そして、平地に到達した。
荒野の真ん中に都市が見えた。
「街がある」
「行ってみよう」
僕たちは、都市に寄ってみることにした。
すごい街だった。なにが凄いって、……。
高いビル群があった。ビルの上の方は洗濯物があちこちに干してある。景観が悪い。ビルはマンションなのだろう、ベランダにたくさん植木鉢が並んでいる。手すりに植木鉢をかけてある部屋も多い。その下は普通に人が群れている。交通量や人の行きかいが多い。植木鉢がもし落ちたら確実に誰か死ぬだろう。
ゴミがあふれでている家もある。イヌネコの声が聞こえてくる家もあった。鳴き声の感じから、何十匹もいると思われた。ゴミ集積場はすこぶる汚かった。逆に壁は芸術的な落書きでいっぱいだった。美しい。技術力の高い人が落書きしている模様。
若者が道のいたるところで群れて踊っている。大音量の音楽を流している。上方の人がいないところに向かって銃をぶっぱなしている人もいる。ダンスを踊っているうちに気持ちが高まりすぎたのだろうか。上に住宅があるから、人に弾が当たることもあるかもしれない。世界樹ではやってはいけないと決められていることばかりやっている。というか、日本では銃を持っていてはいけないはずだ。
「すごい、ところだね」
アメがそういって、僕の顔を見た。どことなく、嬉しそうだった。変な子だ。アメはときどき変わっている。悪くはないけど、いつも意外でびっくりする。
車もみんな、随分ダイナミックな運転をしている。たくさんのバイクが滅茶苦茶な運転と騒音で走っている。ドローンもたくさん飛んでいる。ドローンタクシーだろうか。危険なほどの密度で飛んでいる。ここは交通ルールがないのだろうか。
踊っている若者は、ブレイクダンスを踊っているグループやタップダンスの練習をしているグループなど色んなグループがいる。漫才をしている人達や弾き語りの人や大道芸の人の群れもいる。そこにダイナミックな車が間違って乗り入れると、みんなわっと蜘蛛の子を散らすようにいなくなり、車が去るとまた集まって、活動を再開する。潮の満ち引きみたいだ。
「おや、君たちはどこから来たのかな」
下の方から、声をかけられた。
「わっ」
びっくりした。ぱりっとした背広のおじいさんが、這い這いしている。
「どうして、這い這いしているんですか」
僕は思わず訊いた。
「ああ、びっくりしたかい。私は立って歩くことができなくなってね。もう、年だから。でも、這って移動はできるから、こうしていればなにの不自由もないんだよ。靴も作ったよ」
見るとおじいさんは、膝から足の先にかけて、革でできた大きな靴みたいなのを履いている。手にも革の靴を履いている。荷物は革の鞄がリュックサックみたいになったものを背負っている。
「ここは『自己責任の街』というところだ。世界樹のはみ出し者の集まりなんだよ」
「へええ」
僕は妙に感心してしまった。
「世界樹ではやってはいけないことも、ここでは自由なんだ」
それは、それでいいんじゃないかな。と、思った。そういうところもあって、いい。
「コーデノロジストですね」
アメがいった。
「なにそれ」
イサギがいった。
「昔のアーティストが作った言葉だよ。こういった自由な空間は、とても発展するんだ」
なるほど、ここは確かにエドより都会だと思った。
「アメはちゃんと勉強しているのね」
イサギが褒めた。
そうだ、アメは公務員になりたいんだった。ちゃんとまちづくりの勉強をしているんだ。知らなかった。
「よく知ってるのう、坊ちゃん。じゃあ、おじいちゃんは約束があるから、行くね」
おじいさんは行ってしまった。
「可愛い~」
急にまた、声をかけられた。振り返ると、大きなお姉さんが三人いた。
「子どもよ、子ども~」
「どこから来たの?」
「ここは、子どもは普通いないから~」
また、びっくりした。大柄なお姉さんたちがとても派手な格好をしていたからだ。
一番大きながっしりしたお姉さんは全身黒革のマーメイドドレスを着ている。髪は金髪で、マリリンモンローみたいな髪形だ。片目が金髪で隠れている。真っ赤な口紅で、赤いハイヒール。
隣の比較的小柄なお姉さんは色白で丸々と太っていて、全身ピンクのバレリーナみたいな恰好で、熊のぬいぐるみ型のリュックサックを背負っていて、キラキラした小型の王冠を頭にかぶっている。髪は水色に染め、ツインテールにしている。毛先はくるんと巻いてある。
もう一人の中くらいの背丈のお姉さんは一番痩せていて全身金銀の衣裳を着ている。ぶわっと広がったドレスが前でぱっくり分かれていて中に濃い紫色のマイクロミニ、ピカピカしたエナメルの黒いブーツを履いている。ブーツはももまでの長さ。髪は真っ直ぐのストレートで、奇抜なおかっぱにしている。髪の色も濃い紫色だ。
メイクも三人とも個性的だった。つけまつげのボリュームが半端じゃない。三人がまばたきすると、風が起こりそうだった。
「お姉さんたち、かっこいい~」
イサギがお姉さんたちを褒めた。
「ありがとう~」
お姉さんたちが喜んだ。
「でも、変ね」
と、イサギが小声で僕にいった。
「何が」
僕は、ヒヤッとして小声で訊き返した。
「爪だけが盛ってない」
本当だ。爪は手入れされているけど、外見にそぐわず普通にしている。綺麗にみがいて、短く切って、透明なマニキュアを塗っているのだろうか。そこだけ変な気がした。黒革のお姉さんなんて、長く伸ばして赤く塗るだけで、衣装に映えそうなのに。
「三人はどこから来たの~」
また、訊かれた。
「エ、エドから、来ました」
なんとか答えた。
「どうして~」
三人が一斉に聞いた。
「お母さんに会いに行くんです」
「お母さんに会いに行くんだって~」
「かわいい~」
三人がキャーキャーいっている。声がとても、野太い。
「この人たち、お兄さんだよ」
また、イサギが僕に耳打ちした。あ、本当だ。え、でも、三人ともかなり大きいバストがあるけど。あれ? 既視感がする。
「お姉さんって、呼びなよ」
イサギがまた、素早く囁いた(ささやいた)。そうか、大きな乳牛を見た時と同じような気分がするんだ。『お姉さん』たちには黙っておこう。さすがに失礼だ。牛みたいに臭くはないし。三人のそれぞれの香水の匂いは少々きついけど。
「みんな、うちの子になりなさいよ~」
「ダメよ、世界樹の子どもを勝手に養えないわよ。罰せられるわよ、さすがに」
「世界樹からおりてきたのね。すごいわ~」
また、三人がキャーキャーいっている。
「子ども達、びっくりしてるわよ~」
「怖がらなくていいのよ~。おばちゃんたちは、『ドラァグクイーン』なのよ」
「クイーンてことは、女王様なの?」
アメが尋ねた。アメはお姉さんたちが意外と平気みたいだ。アメはなんだか、この街に馴染んでいる。僕はお姉さんたちが少し怖い。
「そうなの。女王様なの~」
また、お姉さんたちははしゃいでいる。
「そうだわ」
黒革のお姉さんがいった。
「三人とも、シャンプーとカットしてあげる。お代はいらないわ。お母さんに会う前に綺麗にするといいわよ。おばちゃんちに遊びにおいでよ」
シャンプー。僕たちはお互いを見比べた。そして自分の髪を触ってみた。確かに酷い髪をしている。髪が頭皮から出た皮脂でベタベタしている。さらに脂に砂が付着しざらざらしている。アメもイサギも髪の色が心なしか白っぽくみえる。バサバサに伸びて形も完全に崩れている。僕もこんな感じだろうと想像がつく。お姉さんたちの提案はいいかもしれない。
「お姉さんは、美容師なの?」
「そうなのよ~」
お願いすることにした。爪だけがシンプルなのは、職業柄だったのだ。仕事に邪魔だから、爪を飾り立てていないのだろう。プロ意識が高いお姉さんだ。
黒革のお姉さんちは瀟洒な白い洋館だった。玄関の前に小さな白い噴水があった。噴水の中には綺麗な色とりどりの石が敷き詰めてあった。
「素敵なおうち~、眼福~」
イサギがまた褒めた。難しい言葉を遣うなぁ。
「ありがとう~」
イサギもお姉さんたちのノリに完全に合わせている。どこでも順応する子だ。
中に入ると、いきなり美容室だった。僕は黒革のお姉さんが担当で、イサギはきんきらの人、アメはピンクの人が担当してくれた。三人とも美容師さんだったのだ。
シャンプーして、カットして、またシャンプーしてブローしてくれた。
僕は、かなり短髪にカットしてくれた。なんだか前よりかっこいい。
イサギは長めのボブにしてくれて、少しウエーブをつけてくれた。イサギは可愛いからこうすればいいのに、と以前から思っていた髪型にしてくれたと思った。
アメは前と同じマッシュルームカットだけど、前よりお洒落な感じだ。全体的に軽くて毛先で遊んでいる。
三人は本当に腕利きの美容師だった。上の世界の美容室より上手いんじゃないだろうか。僕たち三人に一番似合うようにしてくれたと思う。正解の髪型だ。納得だ。僕たち三人は比較的大げさに喜んで見せた。お姉さんたちも喜んでくれた。
カットのあと、お茶とケーキを出してくれた。
「おばちゃんが作ったのよ」
自家製のブランデーケーキだった。たくさんドライフルーツが入っている。一口食べて、飛びあがった。喉と鼻の奥が焼けるくらいお酒の味がキツイ。
「お、お、お、美味しい~。ね、アメ」
「お、美味しいね~」
僕たち二人は汗をかきながら、なんとかケーキを食べ尽くした。アメの顔が真っ赤だ。僕の顔も暑い。
「ほんとに美味しい」
イサギは本当に嬉しそうにぺろっと食べた。
「そんなに好評なら、お土産にあげるわ~」
黒革のお姉さんは、ブランデーケーキを一本、包んでくれた。
「ありがとう!」
イサギが本気で喜んで受け取った。
「気をつけてね」
「お母さんに会ったら、手紙頂戴ね」
「元気でね」
お姉さんたちが、街から見送ってくれた。
「へっへっへー」
イサギが嬉しそうにブランデーケーキを見ている。
「イサギ、食べちゃっていいよ」
僕とアメは頭が痛いね、と呟き(つぶやき)合った。
「本当!?」
イサギはそういうとすぐさま一本平らげてしまった。イサギは上の世界にいたときより食いしん坊になったと思った。
そのあと、イサギは千鳥足だった。酔拳の達人みたいな足取りで、歩き続けた。強そうだね、と僕とアメは頷き(うなずき)合った。
イサギは将来、呑兵衛になるだろう。
だいぶん南に来たのだろう。暑くなってきたので、僕たちは上着を脱いで荷物にしまった。
海が見えてきた。
「海だ」
「初めて見る!」
僕たちは海まで走った。
「あれ? でも、島の端まで来ちゃったのかな」
アメがごちゃごちゃいっている。
「気にしない気にしない」
浜に近づいた。海の中でとても手足の長い人がいた。僕たちは海の手前で立ち止まった。
「お? おお。子どもか。こっちにおいで」
その人は、とても手の長いおじいさんを肩車したとても足の長いおじいさんだった。怖くはなさそうだ。
「何しているんですか」
訊いてみた。
「魚をとるために網を引いているんだよ。お魚を食べさせてあげよう。おじいちゃん達と遊ぼう」
二人のおじいさんは同時にそういった。
下の世界は子どもがいないせいか、みんな、子どもが大好きだ。
「お年寄りばっかりの村を探しているんです」
イザナエルに会わなければならない。
「ああ、そこはすぐ近くだよ。すぐに行けるから、ここで遊んで行きなさい」
上のおじいさんがそういった。
「はあ」
「沖に行けば、イルカと遊べるよ」
下のおじいさんがそういった。
「イルカ!」
それは面白そうだ。
「もう、日が暮れるから、ここに泊まって、明日の朝に行けばいい」
また二人そろってそういった。
「はい……」
おじいさんたちは、網を引き揚げた。大きな魚が何匹かかかっている。
「あとで、貝や魚を焼いてあげよう」
「はい」
甘えてもいいのかな。悪い人達ではなさそうだけれど。
そこに小山みたいに大きな男の人が来た。
「うわっ」
僕たちは同時に声をあげた。
「ヤマサチビコだよ。怖くない。優しいお兄さんだよ。ヤマサチビコに沖へ連れて行ってもらいなさい。人魚の村がある」
「人魚?」
「ヤマサチビコ、お客さんをイルカと会わせてあげてくれ」
おじいさん達が巨人にお願いしてくれた。巨大なお兄さんは頷くと、僕たちを肩に乗せた。片方の肩にアメとイサギが並んで座れるほど大きな男の人だった。もう片方の肩に僕が座った。荷物は浜に置いていくことにした。
ヤマサチビコさんは僕たちを肩に乗せて、海へどんどん入っていった。
海がどんどん深くなる。
「楽しんでおいで」
おじいさん達が叫んでいる。
ヤマサチビコさんの身長でも、肩の近くまで海に浸かるまでの深さになった。僕たちの足も海水に浸かった。
浮島が見えた。女の人が一人、島の縁に腰掛けている。女の人は腰から下がイルカだった。本当に人魚だ。
「ヤマちゃん、珍しい。子どものお客さんなの」
人魚がヤマさんに声をかけた。
ヤマさんが頷く。
「僕たち、イルカと遊ぶ?」
僕たちに訊いてくれた。
「あ、はい」
「大人しい、いい子たちね。どこから来たの」
「エドからです」
「上の世界の子どもはいい子ね」
「そんなことないです」
「あたし、アオイ。あなた達の名前は」
「セト ツクヨミです。ヨミと呼んで下さい」
「あたしは、セト イサギ」
「僕は、セト アメヒコです。アメと呼んで下さい」
「いい子ね。みんな漁に出ていて、あたしは留守番なの。ここは昔、陸地だったのよ。島だったの。でも、地球温暖化で海抜が上がって、海に沈んだの。あたしたちは二度海へ還ったのよ」
「二度?」
「人間は、一度海へ還ったのよ。あたしたちは二度海へ還ったの」
「はあ」
「いいわ。イルカを呼んで来てあげる」
アオイさんは、海へ潜って行った。不思議な話を聞いた。
しばらくすると、イルカが数頭飛び跳ねながらこっちへやって来た。
「本当にイルカだ」
僕たちは歓声をあげた。
イルカの背に乗ると、イルカは僕たちが沈まないように泳いでくれた。イルカの肌は、撫でると指に抵抗を感じるきゅぴきゅぴとした感触で、昆布みたいな、イカみたいな感じだった。
「かわいい」
「賢いね」
僕たちはいちいちイルカに感動した。言葉がわからなくても、イルカは僕たちの気持ちがわかるようだ。不思議だった。イヌも賢いけど、イルカもイヌくらい賢い。いや、イヌより賢いかもしれない。
イルカと遊んでいると時間を忘れた。ヤマさんは何時の間にか帰ってしまっていて、日が傾き始めたので、また、迎えに来てくれた。
「また、来てね」
アオイさんに挨拶して浜に戻った。
浜に三方に壁があって、屋根だけの家があった。玄関やなにもかにもなくて、すぐ海が見える。嵐のときはシャッターが閉められるそうだ。床もなくて、砂浜がそのまま床だった。その家の中でおじいさん二人がブロックを組んで火を起こし、金網の上で魚や貝を焼いていた。
「おお、ちょうど焼けたから、食べなさい」
おじいさん二人の家だそうだ。
魚や貝は、大きくて身がぷりぷりして、美味しかった。いい塩加減だ。それに、僕たちは海の水が塩辛いことも今日初めて知った。
手の長いおじいさんが、焼けた魚や貝を箸でとって、僕たちの皿に置いてくれた。たき火の向こうにも簡単に手が届く。足の長いおじいさんはあぐらを組んで座っていた。
おじいさんたちは兄弟だそうだ。手の長い人がお兄さんで、『海平さん』という。足の長い人が弟で、『波平さん』というそうだ。
「ここから、海沿いに少し北へ行けば、『老人の村』だよ。野菜をもらって、魚をあげている。明日、魚をお土産に持っていきなさい」
僕たちは腹いっぱいお魚や貝を食べた。
そのまま、砂の上で眠った。砂は温かくて、躰の形にへこんで、寝心地がよかった。
翌日、海平さんと波平さんに見送られて、老人の村へ向かった。魚や貝をいっぱい持たせてくれた。
老人の村はすぐわかった。白い壁で色とりどりの屋根の可愛らしい家の集まりがあった。トマト畑も広がっている。
「たぶん、ここだね」
僕たちは老人の村へ入った。村の道端で、三人の男の人が立ち話をしていた。一人は、たぶんお役所の人だ。まずい。
「あ、君たち」
お役所の人が僕たちに気が付いた。三人の男の人が僕たちに近づいてきた。
「上の世界から、来たの? よく出て来られたね」
「すげえ、坊主たちだな」
「君たち、どうやって来たの」
三人が口々に訊いてきた。連れ戻される心配はなさそうかな?
お役所の人は、髪を七三に分けて、作業服を着ている。眼鏡だ。
もう一人はおじいさんだけど、筋肉質で背筋もしゃんと伸びて姿勢がいい。白いタンクトップに、迷彩のパンツを履いている。白髪は角刈りにしていて、肌が日に焼けている。白い歯が生えそろっていて、笑うと光る。笑顔がかっこいい。足にはコンバットブーツを履いている。
もう一人はチビで太っていて、天然パーマだ。白衣を着ている。眼鏡だ。
「この子たちは、上に帰さなくちゃあ」
「イナバさん。事情を訊いてやれよ」
お役所の人が、不穏なことをいった。角刈りのじいさんが、とりなしている。
「坊主たち、どこから来たんだ?」
角刈りのじいさんが僕たちに尋ねてきた。
「エドです」
「エド!」
三人のおじさんがびっくりした。
「何しに来たんだ?」
「あの、お母さんがここにいるって思って」
「イザナエルさんか」
角刈りのおじいさんが、大したもんだと、呟いて角刈りを手の平で撫でた。
「ダメだよ。会わせてあげる訳にはいかないよ。君たち、おじさんと帰ろうね」
イナバさんと呼ばれたお役所の人が僕たちに詰め寄って来た。まずい。
「イナバさん、会わせてやれよ」
角刈りのじいさん、がんばれ。
「だめだめ」
僕たちは、目配せをして、三人とも別々の方へ走った。魚はそこに放りだした。
「あ、駄目だってば」
イナバさんがおろおろした。
僕は滅茶苦茶に走って、一軒の民家の生垣の下に隠れた。
どうしよう。これから、どうしよう。イザナエルに会えないかもしれない。頭をフル回転させて、どうすればイザナエルに会えるか、方法を考えていた。そしたら、
「坊主、坊主」
生垣の下を覗き込んで、角刈りのおじいさんが僕を呼んでいた。
「会わせてやるから、出て来な」
おじいさんは、赤い屋根の白い家へ連れて行ってくれた。ドアを開けて入ると、ベッドにイザナエルが寝ていて、両側にイサギとアメがいた。
「イザナエル!」
僕は、イザナエルの胸に飛び込んだ。
「仕方のない子たちね」
イザナエルが涙声でいって、優しく僕の頭を撫でてくれた。
「あー、タケルさん。会わせちゃったの」
イナバさんがドアから顔を出して、角刈りのおじいさんをタケルさんと呼んだ。今度は天然パーマの博士がドアから顔をのぞかせて、
「しばらく、いさせてあげたら」
と、イナバさんを説得してくれた。
「イザナエルさんの容体は」
と、イナバさんと博士が相談している。
「じゃあ、上に連絡をとって、しばらく君たちがいられるようにしてあげるよ」
イナバさんは意外と話がわかる人のようだった。
「六か月いられたら、いいかな」
イナバさんが提案して来た。
「そのくらい、なら充分です」
博士が横から付け足した。
「一か月は、三十一日で換算してやれ」
タケルさんが割り込んだ。
「ええっ」
「あと、明日から数えてやれ」
「えええ」
「一週間くらいおまけしてやれ」
「はいいい」
イナバさんは押しに弱いらしい。
結局、翌日イナバさんがエドのお役所に連絡して、僕たちは六か月と一週間この村にいられることになった。
その代わり、条件があった。この村は寝たきりの老人ばかりだ。老人は子どもが好きらしい。毎日、順番に老人たちの家に訪問して、老人のそばで遊ぶことが僕たちの仕事、役割として与えられた。僕たちがそばでにぎやかにしているだけで、老人たちは嬉しくて元気が出るらしい。
それ以外の時間はイザナエルといていいそうだ。もうひとつの条件ともいえない条件は、空いた時間は勉強もするようにとのことだった。前と同じように、イザナエルと一緒の静かな生活が始まった。
僕たちは、まず、今までお世話になった下界の人たちに手紙を書いた。イナバさんが届けてくれた。
過剰の村に報告すると、お米を送ってくれた。アシオが「良かったな」と、返事をくれた。宵っ張りの町からは、物凄い量のキャベツが届いた。
自己責任の街からは、ブランデーケーキが届いた。イサギに食べさせるのも良くないかと思って、タケルさんにあげた。タケルさんは、喜んでくれた。
漁村へは、お遣いでときどき行って、野菜と魚を物々交換した。キャベツもあげた。海平さんと波平さんは、僕たちが行くと喜んでくれた。僕たちは何も用事が無くてもしょっちゅう行って、浜で遊んだ。ヤマさんと沖へ行って、アオイさんやイルカとも遊んだ。
天然パーマの博士は、『ハカセ』と呼ばれていた。本名もそういった名前らしい。みんな、細かいことは気にしない。
僕はハカセが気になって、しょっちゅう後を追っていた。将来、学者になりたい、とハカセにいうと、微妙な顔をされた。ハカセの心はなんだか複雑にできているらしい。
村ではお医者さんをしている。医学博士だそうだ。
ハカセの家も赤い屋根で、家の横に三つのお墓がある。大きなお墓が二つで、小さいお墓がひとつ。二つのお墓は、奥さんのお墓らしい。小さいお墓は、愛犬のお墓だ。今、ハカセは、プロキオンというイヌと一緒に住んでいる。お墓に眠るイヌはシリウスという。
「奥さんは二人いたの?」
と、聞くと、ひとりだという。
「医学の進歩は目覚ましいけど、神に逆らうのは良くないね」
と、ハカセはしんみりいった。奥さんを昔、生き返らせてしまったらしい。でも、結局亡くなったそうだ。
「やってはいけないことをしたよ」
ハカセは多く語らない。僕はハカセに懐いていて、よくハカセのうちへ訪ねて行った。
夜になると一緒に星を見た。プロキオンも一緒だ。静かな時間を過ごさせてもらった。プロキオンと遊ぶのも楽しかった。ハカセには迷惑だったかもしれない。
ハカセは傷ついた人だった。再婚したら、いいのにな、と思った。誰と再婚するのかはわからないけど。僕はハカセが好きだったので幸せになってほしかった。ハカセがもっと単純な人だったら、幸せになれるのにな、と思った。
アメはイナバさんによくひっついていた。イナバさんに色々お役所関係のことを教わっているようだった。
三人でお年寄りの家にいると、タケルさんが来て、外に梯子をかけて、ささっと雨どいを修理したり、掃除したりして、帰っていく。庭を掃除したり、草抜きしたり、生垣の剪定をしたり、電球が切れたら替えてくれたり、とても活躍していた。畑仕事もしていて、トマトやいろんな野菜を作っている。農業ロボットも三台使っている。タケルさんは軍隊上がりだとか。イサギが、
「タケルさん、格好いい」
と、目を輝かせていた。そして、
「将来の夢、『軍隊』ってのもいいわね」
と、呟いていた。イサギなら、なんでもできると思う。
僕たちは、毎日十時にお年寄りの家へ訪問した。介護ロボットが一軒に一台いて、身の回りの家事やお世話をしている。
僕たちはお年寄りのベッドのそばで、カードゲームしたり、お喋りしたりした。それだけで、お年寄りはニコニコして、楽しくされているようだった。みんなで賑やかにすると喜んでくれた。やっぱり、人間がそばにいるのが一番いいらしい。とりわけ、子どもがいいらしい。そして、おやつを頂いて、昼前に帰った。
そのあとは、イザナエルといた。イザナエルと散歩したり、静かにお話したり、三人で頑張って勉強したりした。今までの旅の話をすると、とても喜んでくれた。
「あなたたちが、そんな大冒険できるなんて、誇らしいわ」
と、いってくれた。
夕方になると、村にある洋食屋さんに行って、夕食にした。トヨウケさんというおじいさんがやっている。トヨウケさんは、エドの一流ホテルのシェフだった人で、リタイアしてこの村へ来たそうだ。トヨウケさんの料理は絶品だった。
その洋食屋さんへはハカセもよく来ていた。僕たちに会うと、静かに会釈して、僕たちから離れて静かに食事されていた。ハカセはべたべたしない人だ。
宵っ張りの町からもらったキャベツは、タケルさんに配ってもらった。村中のお年寄りが食べられたと思う。二玉くらいうちにくれたので、トヨウケさんにロールキャベツにしてもらった。美味しかった。過剰の村のお米はライスコロッケやピラフやドリアにしてもらった。すこぶる美味しかった。食べたらアシオの優しさを思い出した。アシオにもう一回会いたいなと思った。
イザナエルは、だんだん歩けなくなっていった。最後の方は、車いすになって、僕たちは代わる代わる車いすを押して、イザナエルを散歩に連れ出した。海のそばをいつまでも歩いた。イザナエルが海を見たがったし、イザナエルを日の光に当ててあげたかった。少しでもイザナエルが元気になればいいと思った。イザナエルは体重も随分軽くなってしまって、車いすを押すと胸が痛んだ。
僕たちがエドに帰る三日前にイザナエルは亡くなった。僕たちは海が見えるところにイザナエルのお墓を作った。
ハカセが、「六か月で充分」といった時、僕はわかっていた。イザナエルは六か月も生きられないんだと。でも、イザナエルは六か月以上生きてくれた。僕たちのために生きてくれた。僕たちがいたから生きられた。僕たちは、満足だった。イザナエルと一緒にいられたから。最期に側にいたから。
イナバさんに二足歩行ロボットで、エドへ連れて帰ってもらった。
帰るとすぐ身体検査だった。血液を採られたり、さまざまな計器に押し込まれたり、躰中に電極をくっつけたりされた。下界の毒の影響がないか調べるためだ。僕は検査にパスした。躰に異常はなかった。
病院から出ると、イナバさんがいた。
「君たちのお父さんが決まったよ」
そこにアメも来た。
「二人、ですか」
イナバさんは、いいにくそうにいった。
「イサギちゃんは、検査にひっかかったんだ」
「え」
アメが、ぼんやりしている。
「イサギちゃんの遺伝子が、男の子だったんだよ」
「ええ」
やっぱりというか、なんというか。
「本人に確認をとったら、男の子になりたいそうで」
「そうですか」
「手術を受けて、下界で暮らすことになったんだよ」
「もう、会えないんですか」
「残念だけど。会えないよ。ごめんね。努力はしたんだけど」
「はあ」
アメがぼんやりしている。アメは、緊張していても、緊張が表に出にくい。分かり難く表出する。アメがぼんやりしたり、あくびをしていたりするのは、緊張している印だ。アメはイヌみたいなところがある。イヌも緊張するとあくびが出る。ハカセに教わった。
僕はアメの肩を叩いた。
「イサギは『レン』になったんだ」
「うん」
僕たちはイサギがあまりに男っぽいから、陰で男の名前で呼んでいた。イサギの名前は、漢字に直すと、清廉潔白の『潔』か『廉』になると思う。『キヨシ』というのは、イサギに似合わないから『レン』と、イサギのことを呼んでいた。
イサギなら、下界でやっていける。あかりちゃんのところへ走って行っただろう。イサギが森の中で走り回っているところも思い浮かべた。結構、幸せに過ごせそうだ。イザナエルのお墓も守ってくれることだろう。イサギに任せよう。
「二人は同じお父さんのところへ行くんだよ」
イナバさんが続けた。
「良かった、です」
二人だけでも一緒の方がいい。
「今から、おいでるよ」
二人で街の中をじっと見た。
「イザナエルさんと結婚されるはずだった方だよ」
「へえ」
どんな奴だ?
そこへ、丘に上がった海賊みたいな足取りの若い男が来た。
「この方だよ。シド サザナミさん。年齢ははたちだよ」
イザナエルより、年下だ。
「よーろしく。君たちがヨミくんとアメくんかな」
海賊が新しいお父さんだった。まだ夕方の四時なのに、完全に酔っぱらっている。嫌な予感的中。
「セト ツクヨミです」
自己紹介した。
「苗字はシドになるからね」
イナバさんが、いった。
「僕の本名は、アメノヌボコです。アメと呼んでください。お父さん」
アメが本当の名前をいった。家族とお役所の人しか知らない名前だ。この海賊を家族と認めたんだ。
「はいはい。よろしく。男三人で仲良くやろうよ。俺のことは『サザン』と呼んで」
「サザンの仕事は何?」
屈託なくアメが訊いた。アメも変わったな、と僕は思った。
「パチプロだよ」
パチンコって、仕事だろうか。
「イザナエルさんて、美人だったってね。残念だよ。この世から美人が一人消えた」
「はい。美人でした」
僕が答えた。
「今から、食事に行こうか。三人の家族になったパーティーしよう。居酒屋でもいいかな。結構、食べるものもあるよ」
「どこでも、大丈夫です」
「ヨミくんは、将来学者になりたいんだってね。アメくんは公務員になりたいんでしょ。将来、二人とも立派になってお父さんを楽させておくれ」
僕は、気づいていた。アメの夢の方が、僕の夢より地に足がついている。アメの方が、僕より夢に近い。僕は、本当に学者になりたいのだろうか。何の学者になりたいんだろう。漠然とし過ぎている。そういう人は学者になるだろうか。
「はい」
「はい」
僕とアメはサザンに返事した。なるべくいい子を演じた。悪い人では無い。僕たちのこともよく知っている。あとで知ったけど、サザンは僕たちの資料を読み込んで、頭に入れてから会いに来てくれたみたいだ。
僕たちはイナバさんの方を見た。
「大丈夫そう?」
と、訊いてくる。
「はい、頑張ります」
「頑張ります。大丈夫です」
「ちゃんと役所の審査に通った人だからね」
と、イナバさんはいった。そして、
「じゃあ、これ」
イナバさんは僕たちに名刺をくれた。
「この名刺のボタンを押したらすぐ僕に連絡できるから、気軽に何でも相談してね」
「ありがとう」
「頑張って」
イナバさんは心配そうだった。僕たちは大丈夫だ。三人で冒険したんだから。
「じゃあ、パーティーに行こう」
僕とアメはサザンにくっついて、夜の街へ行った。
その後、僕は、イナバさんに連絡をとることはなかった。名刺はすぐ失くした。アメは連絡をとっているかもしれない。
サザンは、繊細な人だった。初日に飲んでいた訳は、僕たちに会うのに緊張して、お酒の力を借りてしまったからだった。本当は気の弱い、優しい男の人だった。アメと一緒で、緊張が表面にわかりやすくは出て来ないのだ。誤解されやすいタイプだ。アメはサザンとすぐ意気投合した。二人は似た者同士なのでシンパシーが通い合ったようだ。僕はそれで、満足だ。僕は今度、イザナエルの代わりにサザンを守って行こうと思う。とりあえずギャンブルはやめてもらおうと思う。お酒も控えてもらおう。
僕たちは結構うまくやっている。
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