第一話

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第一話

 綿ぼこりかと思って払いのけると、一瞬に して小さい玉になって消えた。あ、と空を見 上げたら、灰色の空にまばらに雪が落ちて きている。  どうりで寒いわけだ、と奥歯を噛み締め、 ハンドルを握る手に力を込める。風がびゅん びゅんと耳を掠め、体温を奪っていく。  憂鬱な気分を具現化したような空は街全 体を暗く覆う。人も家も影をつくり、疲弊 感が漂っていた。 どうして曇り空は気分を落 とさせる天才なんだろう。  はあと溜め息を零すと、粉雪と溶け合う。  ぼんやりと白煙を追っていると、目の前の信号が赤に変わった。  バイクを止めると、店でのやり取りを思い出す。  『この常連さん、潮見くんやってくれないか な?』  『は?』  店長の奥田は申し訳なさそうな表情を浮 かべ、潮見に書類を手渡した。それに視線を 落とすと、常連客の名前と概要が印字され ている。  『これって木村が担当じゃないっすか?』  『それがね、もうやりたくないんだって』  『はあ』  『噂は耳にしてるかもしれなけど難しい常 連さんなんだよ。あとは潮見くんしか頼れ る子いなくて』  奥田の困った表情に、ぐっと言葉を呑んだ。  捨てられた犬のような表情は良心を痛めるのに十分だ。これを計算せず に素でやっているからたちが悪い。  一文無しだった潮見を拾ってくれた奥田に は感謝している。今の仕事にありつけたこと も、築四十年のボロアパートでも住居ができ たことも、奥田がいたからいまの生活があった。  そのことにはどれだけ感謝の言葉を尽 くしても足りない。  だから些細なことでも奥田を裏切りたく ないし、期待に応えたい。  『わかりました』  『ありがとう。これが相馬さんちの地図ね』  奥田から地図とピザを受け取る。赤い丸で 記された相馬家は同じ市内にあり、バイク で行けば十分くらいで着く。  相馬という客の噂は店では有名だった。月 曜から金曜の十二時にマルゲリータピザを 届ける、宅配ピザでは珍しい定期の顧客だ。  お金は事前に振り込まれ、滞納することは ない。ピザを毎日食べる気持ちがまったく理 解できないが、店としては上場の客だ。  住んでいるのもサラリーマンの男と、その 家族と思われる少年が一人。この少年が平 日でも家にいるところから、嫌な予感しか浮 かんでこない。  傍から見ればいい顧客なのだが、複雑な事 情が絡んでいるのは明白。誰もそれを口にしようとしないところをみると、従業員全員の共通認識なのだろう。  単に面倒事を押し付けられた 気もするが、恩人に逆らえるはずがない。  口に出せない愚痴を心中でありったけ吐き 出し、信号が青になるのと同時にエンジンが 唸りをあげる。  住宅街を抜けていくと、小さな日本家屋が ひっそりと佇んでいた。近隣は鉄筋やセメン トで塗り固めたような現代的な建物に対し、 時代から取り残されたように異彩を放つ。  表札も分厚い木製の板で「相馬」と書かれている。  「ここか」  潮見はバイクから降り、ケースからピザを 取り出す。強張っていた手のひらがピザの熱 でじんわりと温められ、力が抜けてくる。息 を吸い込むと、チーズとトマトソースの匂い が鼻孔を擽った。  腹も減ったしさっさと終わらせよう。  意を決してインターフォンを押すと、玄関の引き戸がゆっくり開けられた。ひょっこりと顔を覗かせた少年をみて、潮見は目を見開いた。  少年は身の丈に合わない大きなシャツ一枚の姿だった。足の付け根まで隠れているが、その下から覗く足はもやしのように白く弱々しい。  できるだけ表情には出さないように努めた。    「いつもありがとうございます。ピザガーデンです。ご注文の品をお届けにあがりました」  動揺とは裏腹に、マニュアル通りに言葉が出てきて、ほっと胸を撫で下ろした。  少年は無表情のままお辞儀をしてピザを受け取る。近くでみると見間違いではなく確信が芽生えた。  この子、クローンだ。  潮見はまじまじと少年を見下ろした。年は十五、六歳だろうか。背は潮見の胸より下で、身体のラインも細い。色素の薄い髪があっちこっちに飛び跳ねていて、動く度にぴょこぴょこと踊る。  零れ落ちそうな大きな瞳は、茶色と黒と緑が混ざったような不思議な色を宿していた。その色合いに一瞬で目が奪われる。まるで万華鏡を覗くような心地よさがあり、角度によって輝き方が変化する。じっと眺めている、少年は首を傾けた。  「あ、すみません」  謝罪して視線を逸らすと、腕や足にいくつかの赤紫の痣があった。細枝のような腕に無数にみられる痣の数。転んだ、という理由だけでは誰も納得ができないだろう。  これは殴られてできたやつだよな。  その答えに辿りつくと、寒気が背中を駆けのぼる。もしやここに住んでいるもう一人が付けたのか。  少年のボロ雑巾のような服装に、身体中の痣、それにクローン人間ということも相まって、この少年の境遇がかつての自分と重なり吐き気を覚え口許を覆った。  「失礼しました!」  潮見は逃げるようにバイクに跨った。少年がどういう表情をしていたのかも目に入らない。  心臓は跳ねあがり、身体から突き出てしまいそうだ。さっきまで冷たかった風が熱く感じられ、潮見は夢中でバイクを走らせた。
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