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2.歌
アンリに連れられてきたのは……住宅と住宅が密集した狭い路地裏だった。
家同士の外壁に挟まれたそこで立ち止まるアンリにケイは、おい、と声をかける。
「え、この先、行き止まりになってるけど。どこだよ、穴場って」
「しっ!」
アンリがふいに唇の前に指を立てる。は? と顔をしかめたケイに向かい、アンリは唇に当てていた指をそのまま頭上へと向けた。
指の先には、換気扇のダクト。
そして。
歌が、聴こえた。
細く、高い、女性の声だ。
夜の闇をほのかな光を放ちながら舞う蛍のように、儚げなその声がダクトから降ってくる。
狭小地が密集したことで生まれた、間隔にして一メートルもない路地なのに。どちらの家も築年数を重ねた建物で、壁も長年の雨水に汚されているというのに。
その風景にはそぐわない声が、路地裏に漂う湿った空気を清浄な色に染めていく。
排気口から漏れる、かすかなカレーの香りと共に頭上から覆いかぶさってくる声。その声を耳にしたとたん、ケイは完全に動けなくなった。
浮遊する声があまりにもまっすぐにケイの耳を、心を、刺したから。
「どう? すごいでしょ」
声もなく立ち尽くすケイの耳元でアンリが言う。こくこく、と頷くしかできないケイにアンリはこそこそと続けた。
「この時間だけなんだよ。これ聴けるの」
「お前、ここの家、誰の家か知ってる?」
尋ねると、アンリはちょっと困ったように笑ってから答えた。
「あたしの家」
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