大きな変化の始まり

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「まぁ、とりあえず朝ごはんを食べよう」 困惑している僕の気持ちを汲み取ったような課長が、そう言ってテーブルにサラダや牛乳、コーヒー、今朝はハムと目玉焼きがのった皿を並べている。 僕も並べるのは手伝った。 「なぁ渚冬、そろそろ一緒に会社へ行かないか? 」 朝食を食べながら、課長がそんなことを言う。 そろそろ? それはどういう意味だろう。 「…… 課長と一緒に暮らしているのが、周りに分かってしまうんじゃないですか? 」 「…… だめなのか? 」 不思議そうに僕に訊く。 いいんですか? 逆に僕が訊きたい。 それに、やはり課長と呼んだ僕にがっかりしたような課長。 「最初にここの話をいただいた時、内密だって言っていたのは、僕が課長と一緒に暮らすのが周りに知られたら、問題があるからなんじゃないんですか? 」 「そうじゃない。表参道のタワマンが独身寮なんて話が広まったら、溢れんばかりに独身者が殺到するだろう? だから内密に、と言ったんだ。それに、渚冬以外を住まわすつもりなど微塵もなかったからな」 僕以外を住まわせるつもりはないって、それは、そういうことなんだろうと思っても、 ── どうして僕だけ? と、まだそれを問う勇気がない。 「他の人からしたら、僕が課長の家に住んでるって、どう考えても不自然じゃないですか? 」 「そんなことないだろう、渚冬は俺の可愛い部下だし」 可愛い部下。 本当に、それだけなの? だったら、他にも部下は山のようにいる。他の人たちは可愛い部下じゃないの? そんな、ひねくれた疑問を持つ僕。 それに僕は…… 昨日のこと、昨夜のことを思い出して胸がキュッとなった。 これで課長が、僕をただの可愛い部下というだけの気持ちなら、そう考えたら、落ち着かなくなった僕のこの胸の説明ができない。 課長と僕の関係はなんなんだろう。 単なる上司と部下? こんな毎日を過ごしていて? 今さらながらに抱く疑問のせいで、素直になれなかった僕。 だから、 「僕は電車で行きます」 そう言ってしまうと、 「…… そうか」 と、お茶目ではない、ひどく寂しそうな顔で課長が応えたから、僕の胸は何かに掴まれたようにぎゅっと痛んだ。 いつもみたいに、口先を尖らせて頬を少し膨らませる課長の顔を期待していたのかな、僕。 喉の奥がツンと痛い。 その日のことだった。 朝、春金堂へ直行していた岡崎さんが険しい顔で部署に戻ってきたのは、十時を過ぎた頃。 皆んな得意先回りに出かける準備も整い、出かけようかとしていたその時。 「課長、お話しが…… 」 脇目もふらずに課長のデスクへと向かって行った岡崎さん。 「どうした? 」 そんな岡崎さんの様子に驚くこともなく、淡々と落ち着いた声で訊いている課長。 皆んなは、どうしたのだろうと不安気に、課長と岡崎さんに視線を向けていた。 「来月発売の新商品『ふわぽわ』の仕入れ値を下げろと、春金堂さんが…… 」 そこまで言うと、課長がギロっと岡崎さんを睨み、皆んなの眉間にもシワが寄っていた。 もちろん、僕の眉だってギュッと寄る。 来月発売予定の新商品『ふわふわぽわりん』は、会社でもかなり力を入れている商品だ。 「ふざけた話を持ってくるんじゃない」 「でなければ、今後の取引をやめると言われました」 「はぁ? 」 「『ふわぽわ』に限らず、うちとの取引は一切しないと」 「………… 」 課長が表情を崩さず、黙ったまま腕組みをして椅子の背もたれに体を預けた。 部署内の皆んなが、固唾を呑んで課長の言葉を待っている。 そんな先方からの一方的な交渉、場合によっては法に触れるだろうと思うが、正直、こんなやり方は珍しくないのが実情だったりする。 「どれだけ下げろと言ってるんだ? 」 「8% 、です」 「…… 何様のつもりだ、春金堂」 この第二営業部で一番の取引先である春金堂は、そもそも他社より卸値が安い。そこから8% 卸値を下げるとなれば、うちの利益はないも同然となる。 「春金堂さんが卸しているショップは、全国展開しているところが多いです。取り扱ってもらっているだけでも大きな宣伝になっています。切られてしまったら、我が社は相当の痛手になるかと…… 」 「気に入らないな」 課長の不愉快そうなひと言に、皆んなの緊張が高まった。 ヘッドハンティングをされてこの会社へ来た課長、以前は何をしていたのか、皆んなも僕も知らない。 でも、仕事ができる凄い人だったんだろうことは間違いない。 普通のやり方はしない人、そんな気がする。 そう思うと、課長がなにを言い出すだろうかと、僕はざわざわと落ち着かない。 デスクでひどく難しく、恐い顔をしている課長を、息を凝らして見つめた。
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