謎のはじまり

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謎のはじまり

「説明してみろ」 僕の顔は見ずに、書類に目を通したまま低い声で課長が言う。 怖い。 すごく怖い、ようやく東京に戻って来れたのに。 それだってまだ、一週間前のこと。 ✴︎✴︎✴︎ 就職活動ではかなり苦戦した。 やっと貰えた内定は大きな会社、オリジナルファンシーグッズの企画製造販売をしている『ピュアファクトリー株式会社』 。 業界では大手だ。 嘘でしょ! と、声を上げて喜んだけれど、入社時の辞令は営業で、遠く離れた四国の香川県だった。 そこでニ年頑張った。 正直、営業は苦手だけれど頑張った。 東京を離れるのは悲しかったけれど、せっかく大手企業に就職できたんだ、とりあえず頑張ってみようと腹を括った。 赴任先やお得意先、香川の人たちはとても優しくて、いい人たちばかりだった。 とはいえ、僕はやっぱり東京がいい。 東京に憧れて、地方から東京の大学へ来たんだから。また地方に行くって、切なすぎた。 東京には本社と支社があるけれど、どちらでもいい。とにかく東京へ戻りたい。 異動願いを何度か出した。 その甲斐あってか、東京本社への辞令をもらう。 本社!? 本社って、え? どうしよう! 支社の、どこかの営業所だろうと思っていた。 まさか本社なんて、身の丈を考え不安に思わなくもない。 東京へ戻り、喜んだのも束の間。 そこで待ち受けていたのは、泣く子も黙る鬼上司、宇城(うしろ)課長。 はじめまして、だった。 ✴︎✴︎✴︎ 「は、はい…… あの、えっと、その…… 」 「説明する気はあるのか? 」 地を這うような低く重たい声。 ビクンッと体が動いた。 チラッと向けられた視線が、途轍もなく冷たくて鋭い。 体がぶるぶると震えてきてしまう。 「ほぅ、ショップのスタッフが大変そうだったから商品の棚替えを手伝ったのか? 他社の商品の棚を。それもライバル会社の『キューティスト』さんのか」 「………… 」 本当に大変そうだった、ウチの商品棚を優先して変えてくれていたから、ひどく疲れても見えた。 だから、思わず手伝ってしまって、帰社するのが遅くなってしまった。 なぜ遅くなったのか、「説明してみろ」という状況の今。 「も、申し訳ありません…… 」 ずっと頭を下げていた。 だって、怖くて課長の顔なんて見れないから。 スッと立ち上がったから、「ひゃっ」と思わず、小さく声が出てしまう。 身長なんかものすごく高い、顔はあまりに整いすぎていて、端正だから尚更怖い。その顔で睨まれたら…… いや、本人は睨んでいるつもりはないらしいけれど、切れ長の目がそう感じさせてしまう。 部署にいる他の人たちは、とりあえず自分に難が降りかかってこないようにと息を潜めているのが分かる。僕がその立場だったら、同じようにきっとする。 「青坂(あおさか)」 「はっ!はいっ!」 背筋がピーンと伸びて、直立不動の僕。 「ちょっと来い」 ええぇーっ! パワハラじゃない? パワハラにならない? どうなるのか分からないのに、パワハラだと頭の中で半分決めつけていた。 周りを見ると皆んな知らないふり。 仕方ない、自分だって絶対そうする。 「来いっ!」 「はっ!はいっ!」 強い口調で来い、と言われ、ほぼ反射的に部署の部屋を出ていく宇城課長の背中を追った。 え? トイレ? トイレに入っていく宇城課長が目に入り、足が止まる。 なんでトイレ? 「何してんだ、早く来い」 トイレから顔を出し、ヒョイっと、(こっちだ)みたいにする宇城課長。 …… 嘘でしょ。 トイレでヤキを入れられるのかな? 中学生みたいじゃん、恐くて足が動かない。 でも、それじゃあ本当にパワハラというか、暴力だし犯罪じゃん。 誰か助けて、と思って周りを見回しても誰もいない。 どうしよう、どうしようと思っていると、またヒョイっと顔を出した宇城課長。 「あ、いま、今、行きますっ」 震える足をどうにか動かし、宇城課長が待つトイレへと僕は…… とりあえず急いだ。 「ほら、ここに立て」 「…… は、い…… 」 次は、歯を食いしばれ、かな? 思わず目を瞑り、言われなくても歯を食いしばった。 シュッ、シュッ、となにやら頭の上で音がして、ちょっと冷たい液体が少し顔にかかり、恐る恐る目を開けた。 「こんな寝癖で営業に行ったのか? 身だしなみはきちんと整えろ」 …… 柔らかい口調に驚き、思わず課長の顔を鏡越しに見ると目が合ってしまう。 ドキリとして急いで視線を逸らした。 それに、そのヘアミストみたいの、どこから出てきたんだろう、さっきまで持ってなかったよね。 頭にシュッシュとかけられ、課長の大きな手が僕の髪を整える。 なにが起きているのか分からなくて、僕は宇城課長の前に呆然と立ち尽くし、鏡を見つめているだけ。 「よし、まぁこれくらいでいいだろう」 鏡を覗き込みながら、朝のひどい寝癖が少しは、いや、かなりマシになった僕の髪を見て、満足気に微笑む宇城課長。 その微笑みさえ恐い。 「あ、の…… 」 「身だしなみはきちんと整える、営業の基本だ、忘れるな」 「は、はい…… あ、の…… 」 「なんだ」 どうしたことだろう、宇城課長、恐いくらいに優しい。 このあと、いきなりぶっ飛ばされたりしないかな? 不安になって少し身構えた。 「俺は用を足してから戻るから、青坂は先に部署に戻っていなさい」 などと、優しい口調に加え、最後はニコリと笑みを見せた。 「はっ、はいっ!」 宇城課長の笑顔なんて初めて見たし、怖すぎる。早くこの場を去りたい。 大急ぎでトイレから出て部署へ戻った。 「青坂ちゃん、ご愁傷さまだね〜。課長にみっちりしぼられた? 」 部署に戻ると、隣の席の先輩が気の毒そうに僕に声を掛けてきた。 トイレで寝癖を直してもらっていたなど、言えるはずもない。 「え、あ、は、い…… 」 「あれ? 寝癖、直してきた? 」 「えっっ!? 」 真向かいのデスクに座る別の先輩に声を掛けられ、心臓が飛び出るほどに驚いた。 「あ、は、はい…… っと…… 直してこいって、課長に言われて…… 」 いや、言われてないし、直したのは課長だけど、そんなこと言えない。 「厳しいからなー課長。身だしなみなんか特に。てか、全部に厳しいけどな」 はははっ、と部署の人たちが笑っていたかと思うと、急に黙り込んで仕事を始める。 「青坂、今後は、今日のようなことがないように、気をつけろ」 突然に課長の声。 皆んなが黙り込んで仕事に戻っていたことに納得する。 それに、さっきのトイレでの優しかった宇城課長はどこへやら、またいつもの課長に戻り、低く厳しい声で注意を受けた。 「はい、申し訳ありません。気をつけます」 椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。 さっきのは、一体なに? 夢でも見ていたのか、なんて思えるほどに謎すぎる。
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