「好きな人が出来たので」の番外編です

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「好きな人が出来たので」の番外編です

   君が求めたときに、君を抱く。 君の欲情と僕の性欲は波長が合っていて、それでいいと思っている。相変わらず君の好きには応えてあげられないけど、こんなことで君を満たしてあげられるのなら、優しく君を抱く。君はそれ以上を望んでいない。 「あなたが僕を好きだなんて、おかしいよ。たぶん不幸な僕に同情してるんだ」 「はぁ~同情って何?同じ情け?私はそんな高みの人間じゃないし、それをはき違えるほどバカじゃない!」  あまりにも激高したので、それ以来その手の話題を避けてきた。だから未だに僕を好きな理由を知りあぐねている。  まっ知ったところで、ああそうなんだで終るのだけど、もっと深い謎の理由があるのなら知りたいと思う。この一方通行の気まずさが、いつも僕を優柔不断にさせるらしい。  一緒に住もうと彼女が提案したときも、躊躇したら少しキレられた。 「答えがYESとNOなら、どちらか選べるでしょ」 「そんな簡単に決めちゃっていいのかなぁ」  食事も洗濯も掃除もやってもらって、僕は何も返せていない。無償の愛に戸惑い、応えることのできない自分を嫌悪している。 「僕はお金もないし、一緒に住んでもいいことなんて何もないよ」 「あんたみたいな人間に見返りなんて最初から期待してない。そうやって、どうしようってオロオロしてるだけでいいから・・・おもしろいから」  小さくて弱い僕を手の平の上で転がして楽しんでいるのかもしれない。 そう思うと、このまま彼女を楽しませるでいるだけでいいのかなと安堵する。たぶん僕がYESでもNOでも、答えは決まっている。それに反論しないことも充分承知なのだ。  ここの周りの景色が好きだからと、僕のアパートに彼女が引っ越してきたのは5月の連休だった。  僕の淹れたコーヒーは、ちょっと苦いと文句を言いながら切り出した。 「裏の土手で全力疾走していたでしょ」  そう言われても、運動とは無縁の僕には覚えがない。ちょっと新鮮な空気に当たりたいとか、追い払いたい邪念があるときは、土手をあてもなくトボトボと歩くことはある。でもあれは疾走とは程遠い。 「不格好な走り方だったからトレーニングじゃないとは思ったけど、よく見たら犬を追いかけてた。犬にもうちょっとで追いつくところで思いっきり転んだ。あ~あって思ったら腹ばいになりながらリードを離さずに握りしめていた。しばらくして追いついてきた爺さんにリードを渡してるのを見て感動したんだよ。他人のための全力疾走。私だけが知っている、あんたの全力疾走、一生に一度の全力疾走だよ。ねぇ、すごくない」 「ああ、そんなこともあったね」 「コンビニで再会したとき、あの全力疾走男、み・い・つ・け・たって」  アルバイトをしているコンビニで、いきなり付き合いませんかと言われた。 一目惚れされるような容姿でもなく、なにかインパクトのある出来事があったわけでもなく、初対面の人に交際を申し込まれた僕は時間が止まったように硬直した。長くやってる仕事なので、勝手に手が動いてレジを打ち会計は済ませた。 「返事は、また今度」  レシートを受け取りながら彼女が事務的に言ったので、わかりましたと答えてしまった。ボーっとしている僕に同僚が声をかける。 「やるじゃん、美人だしOKしちゃえば」 「人を好きになるのに理由なんてないじゃん、いつのまにか住み着いてるんだよ。その人のことを気づくのか、気づいてあげられるのかが大事なんだよ」  探している答えなのかはわからない。ただ、ぼんやりとした幻影が少し形を成して動き出し、仕草や言葉が気になって振り返ってしまう僕がいる。  深く考えることも気に病むこともなく、もっと単純にふんわりと包み込んで大切にしたいもの。それが彼女なのだ。 「私って尽くすタイプだから、笑顔でありがとうって言われると嬉しくて、また何かをしてあげたいと思う。で、別れる時の決まり文句が”重たい”だよ。あんたは嬉しくなければ嬉しい顔をしない、その顔だけはいつも正直なんだよね」  褒められているのか微妙なので、喜ぶことができない。それがどの感情と直結しているのかもわからない。  笑顔と正直を天秤にかけてみる。受けた親切に笑顔を返せない正直者なのか。そうやって難問を吹っかけて僕を困らせるのが、彼女の日課だ。  悟られないように心を隠すことが、子供のころから身についていた。  無辜(むこ)の胸の内側を彼女だけが覗いているようで、ちょっと気まずい。嬉しくなければ嬉しい顔をしない、それは当たり前のことなのに。  笑顔は人間関係を円滑にし潤滑油の役目を果たす必須のアイテムだ。ただ万能ではない。時には人を傷つけることがあるのだろう。  彼女が僕の上になりキスをしてきたので、かわりに僕が上になりキスを返す。頑張り屋の彼女が甘えられるのが、唯一選ばれた僕だけだ。  彼女は僕の愛を求めない代わりに身体を求める。  僕はその欲求に身体で応える。  曖昧模糊で(いびつ)なカタチだけど、それもアイと呼んでほしい。  この激しいけど切ない吐息のように、一瞬で消えてしまうような不確かなものだけど、僕たちは今この愛のカタチのなかで生きている。
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