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踏みつけた 落ち葉の上にも 降る雨は
「うわぁ、すごいねお父さん」
「はは、こんなのまだまだ序の口だよ。若い頃どれだけ練習していたか……。お父さんの昔の映像も、見たことあるでしょ?」
お父さんは得意げに言い放ち、頭に被った帽子を整える。
「触ってみる?」
その言葉のまま、その大きい腕の中のギターに手を伸ばし、ゆっくり弦に触れる。
ぽろん、と音が鳴る。
下の弦に指を動かすと、さっきとは違う音色が響いた。
「うわぁっ」
窓の向こうから差し込む光が揺れて、ギターを優しく照らす。
「あまねも、音楽がすき?」
「うん、だいすき!」
勢いよくこくりと頷くと、お父さんは口を開けて笑う。なんだかとっても満たされたような、幸せそうな表情をしていた。
「じゃあ、将来はお父さんみたいな音楽家になるのかな?」
「えぇえ、なれるかな?」
突然そんなことを言われた私は、疑問符を頭の上に浮かべながらそう答えた。
お父さんのように、何千人もの人の前で演奏する自分など、まるで想像できなかった。
「なれるよ、あまねなら、きっと」
「そう、かな」
「あまねなら、きっと、音楽で人を救うことができる」
なんの確証もないのに、酷く真剣な眼差しで。
お父さんは口許を緩ませて、泣きそうな表情でそう言っていた。
***
目を開ける。息が苦しい。
目蓋を上下させると、いつもの古ぼけた天井が目に入る。
あぁ、またあの夢か。
あの日々には、もうとっくに終わりを告げているのに。
お父さんが被っていた帽子の意味も、ひとつひとつ噛み締めるような笑顔の裏も、私は知らなかったからーーー。
幸せは、いつもすぐそばにあるものじゃない。
そんな有り触れた言葉の意味をきちんと理解したのって、私、いつぐらいだったっけ。
ふらふらと定まらない体勢のまま教科書を鞄に詰め、靴を履いて玄関を出る。
「行ってき、ます」
今日の日の空を見上げて、行き場のない息を吐く。
薄い水色の空の下、背負ったギターの重みが、どうしようもない焦燥を駆り立てる。
どう足掻いたって、過去は変わらないのにーーー。
あの夢を見た日は、いつもこうだ。
記憶の中の優しすぎるお父さんの笑顔が、酷く私を責める。
徒歩で十五分ほどで、入学したばかりの高校に到着する。
周りに生い茂る濃い緑の木々が、ガサガサと音を立てていた。
小中と通っていた校舎と同じような周りの風景に、なんだか呆れてしまう。
四角い箱のような古びた学校を取り囲むのは、いくつもの山々。
もちろん、近くにコンビニなんてあるはずもない。
まさに田舎、って感じの光景。
それでも、先輩が好きだといった世界だから。
ひらひらと髪を靡かせて机に座る、先輩の後ろ姿が思い起こされる。
彼女の奏でる音色のように、私も演奏してみたい。
今から練習するんじゃ、遅いのかもしれない。
でも、いつかはお父さんのようにーーー。
すっかり花びらの散ったグラウンドの桜は、赤い実を落として新緑の葉をつけている。
教室に入ると、終わらない喧騒が私の心を襲ってきた。
クラスメイトとの会話を無難にこなし、頬杖をついて時が流れるのをただ待つ。
惰性で六時間の授業をやり過ごし、それが終わると部室へ直行。
入学早々こんなことを言ってしまうが、放課後のために学校に行っているようなものなのだ。
まだ彼女に出会ってから、一週間ほどしか経っていないのに。
先輩に会えることが、私の生活の喜びに変わっていた。
部室への廊下を渡っていくと、窓から薄明かりが差し込んでいるのが見える。
朝の天気とは一変して、小雨がしとしとと降っていた。何処かで誰かが小声で話しているような、そんな雨音だ。
あ、しまった。今日、傘なんて持ってきていない。
まぁこのくらいの雨なら、濡れて帰れば大丈夫だろうけれどーーー。
立ち止まってそんなことを考えていると、突如後ろに人の気配を感じた。
「うわっ」
振り返ると同時に、先輩が両手を広げて驚かそうとしてくる。
予想通りの結末とはいえ、心なしか鼓動が速くなっているのを感じた。
「うぇーい」
お茶目な先輩はニヤニヤと笑ったのち、小さく舌を出す。
先輩の眩しさにつられるように、私も目を細めて微笑む。
「あの、今日も、よろしくお願いします」
思わず頭を下げると、先輩は慌てたような素振りを見せた。
「えぇー!そんなかしこまらなくていいのにー!気楽にいこうよぉ、気楽に~」
「あはは、はい」
先輩と肩を並べ、他愛もない言葉を交わしながら、部室に入る。
降る雨の音が遠くに聞こえるくらい、先輩は明るさを纏っていた。
「じゃ、今日もやってこー」
ギターを抱え、ひとつひとつ音を確かめていく。
指が弦に触れ、耳に届くメロディ。
すっかり私は、ギターの虜になってしまったようだ。アコギにしか出せない、優しく包み込むような澄んだ音色。
ずっと触れていたくなるような温かみがあって、
まだ四月なので、少しづつ基本を教えてもらっている最中だ。
先輩の教え方は、簡潔でとっても分かりやすい。先輩が言った通りに練習していくと、みるみる上手くなっていくのを感じる。
「そうそう!あっ、ちょっとここの抑えが弱いかも」
「はいっ」
ずっと、ずっと憧れていたのに、お父さんと別れて以来触っていなかったギター。
長い間使われてきた楽器を自分のものにするのには、多少抵抗があったけれど……。
「ちょっと休憩する~?」
小一時間ほど絶え間なく指を動かし続けたので、少し疲れてしまった。
先輩が気を遣ってくれたのか、そう声をかけてくれる。
私はその言葉に甘え、こくりと頷く。
「あ、はい」
先輩は鞄から綺麗な水筒を取り出し、それをパカッと開ける。
「うわぁ、おいしい」
水分をごくごくと飲み干す先輩の姿が、やけに美しく見えた。
無意識のうちに先輩の横顔を見つめていてしまったことに気付き、ハッとして目を逸らす。
「先輩、あの」
「んー、なぁに?」
「先輩ってギター始めたの、いつぐらいなんですか?」
「えっとー、いつだったっけ。高1の途中くらいかなぁー」
意外だ。
先輩の音色があまりに綺麗だから、もっとずっと小さい頃からやっているのだと思っていた。
「私、ちゃんと楽譜読んだことないんだよねー」
私が持ってきていた、初心者用のギター専門書をぱらぱらとめくり、先輩は呟く。
「まぁ最初は少し勉強してたんだけど、続かなくてぇ」
どうやら先輩は、全部フィーリングで弾いているらしい。
「え、天才じゃないですか」
そういや、私のお父さんだっていつも何も見ずに弾いていたけれど……。
「いやいや、そんなことないよー!私の友達だって一瞬で耳コピして、なんでもピアノで弾けちゃう人、いっぱいいるし。あと、日常音とか会話の音が何なのか全部分かる吹部の人とかー」
「それは先輩の周りの人たちが凄いだけです」
思わず率直な言葉を述べると、先輩はデレっとした笑顔になって首を傾げた。
「えぇー、絶対違うってぇ」
その後、練習を再開して三十分経った頃。
最終下校時刻を告げるチャイムが、校舎中に鳴り響いた。
「あ、やば」
先輩が腕時計に目を落とし、驚いたように言う。
「もうこんな時間ですね」
「ね、早いね~」
荷物をまとめて鞄を持ち、ふたりで部室を後にする。
誰もいない真っ暗な階段をゆっくりと降り、得も言われぬ高揚感を味わう。
世界には私たちふたりしかいないような、そんな錯覚に陥ってしまうほどだ。
「ほんと、この部活顧問がうるさくなくていいよねー。早く帰れとか急かされないしー」
「あはは、そうですね~」
靴箱の場所まで移動したところで、外を眺めて降りしきる雨に気付く。
「あ、」
どうしよう、重大なことを思い出してしまった。
傘がない。せっかく、先輩と一緒に帰ることができる日なのに……。
銀の雨粒が、勢いよく地面に打ち付けられていた。
止む気配のないそれを見て、私は呆然と立ち尽くす。
「えぇっ、傘ないの?」
先輩が顔を覗きこむように言うので、俯きがちに首を縦に振る。
「あっ、はい。すみません……」
「えぇー、そんな謝らないで~。一緒に入ってこー!」
突然傘を差しだされたので、少し戸惑ってしまう。
「あ、えと。いいんですか……?」
「何言ってんの~!当たり前だよっ、そのままじゃ帰れないでしょ!」
「ありがとう、ございます」
先輩は、酷くあったかくて優しい。
申し訳なさで、心の中がいっぱいになってしまうほど。
肩を並べて歩きはじめると、数センチ動けば先輩に触れてしまいそうなほどの距離に不覚にもドキッとする。
こんなにも湿気が強く雨が降りしきっているのに、どうして先輩の黒髪は綺麗に靡いているのだろう。
心底、不思議に思う。
「あ。そうだ、天音ちゃん。そういえば聞いてなかったんだけど、好きなバンドとかはあるの?なんか、アーティストとか」
そんな問いを投げかけられ、下を向きながら考えてみる。
ローファーを濡らす灰色の雫が、どこか優艶に映っていた。
「あ、えーっと……」
ふたりの間に僅かな空白が生まれ、雨音が耳の近くで強く鳴る。
頭の中に浮かんだのは、ひとつのバンド名。
でも、どうしてだか勇気が出なかった。
自分の好きなものを、口にするのが怖いだなんて。小心者にもほどがあるな、私。
あんなに、あんなに、大切な曲ばかりなのに。
「先輩は、あるんですか?そういうの」
そのまま言葉を濁し、先輩に同じ質問を返してみる。
「私⁉あるよー、いっぱい!えっとぉ、一番好きなのはArco Irisでーっ!」
「えっ」
瞬間、時が止まったような感覚がした。
「Arco Iris…」
虹を意味するその言葉に、私はゆくりなくも言葉を失ってしまった。
「もう今は、あんまり活動してないけどね、」
「あ、そうですね……」
「あの、先輩。私も、Arco Iris大好きです」
「えっほんと!?」
間近にある先輩の晴れやかな表情を、吸い寄せられるようにして見ていた。
その時に感じた胸の高鳴りの正体を、その時私は知らなかったから。
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