貴女しか見えない

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貴女しか見えない

 巡り来る怠惰な安寧が呼吸をしていた。天には太陽と月が同時に存在し、互いの素顔を見定めようと丹念に睦み合っている。嵩む虚実も悪戯も許される桃源郷に誘われた少女は、材質不明の机上にて嫋やかに流れている川を眺めていた。  周囲に生えている極彩色の林檎や花瓶に生けられた蝋燭(ろうそく)等、彼女の興味関心を奪うべき事柄は数多あったが、今の彼女にとって大切な事は如何にして川の向こう側を踏み越えるか、その一点に尽きた。机は一種の桟橋と化していたのである。机の左右には絶対に飛び越えられない程の大穴が開いていて、落ちれば二度と戻ってくる事は叶わないだろう。瑞々しくも儚い感傷は過去の巨大な鈍痛の前に崩れ去り、彼女の存在しない胸中を埋め尽くしていたのは(たくま)しい安堵感だけだった。 「おや、これは嬉しい客だ。狭間で揺れ動く迷い人なんて」    (カラス)の濡れ羽と同じ色をした少女の髪を何者かが触る。後ろを振り返るとそこには虚無が漂っている。代わりに机の反対側に男が座っていた。カイゼル(ひげ)を携えて尊大に背筋を丸めて笑っており、喜劇を謳う道化師に髭を強引に糊で貼り付けた様な風貌をしている。紳士服にシルクハットとおどけた仕草で彼女の瞳に入り込もうとしているが、ここまで不誠実を投影できる物かと少女は逆に感心していた。それこそ、川の存在を一瞬忘却の彼方に置いておける位には、彼の持つ胡散臭さに魅入られていた。だが少女は自身の目的を取り戻し、机上の川へと意識を向け直す。手を伸ばして机への挑戦を謀る。 「おっと、向こう側に行くには順序があるんだ。君はまだ資格を持たないメトロノームでしか無いのだよ」 「……方法を教えて下さい。ここで貴方の道化心に中てられて、踊り出すなんて滑稽で仕方ないですから」 「口が悪い子は大好物だよ。笑わせがいがあるからねえ」    男は大袈裟な動作で少女の気を引こうと躍起になっている。悪意の無い純粋な不誠実故に、少女の信頼を掠め取る事は出来ない。雑多な瓦礫(がれき)の海で理不尽に磨り潰されて来た少女にとっては、むしろ悪意の方が信じるに値する物であったのだ。周囲の環境によって変質した生き方は、今や悪意と人付き合い出来る処世術として傲慢にも根を張っている。最も、その性質は(センダン)の花弁の裏表が違う色である事と同義であり、少女を象る要素の一欠片でしかないが。
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