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彼女の結婚
「4月1日に結婚するんです」
職場の後輩の岩崎芽衣がそう教えてくれたのは1月の初め。
ちょうどお正月気分が薄まるころだった。
「……へえ、そうなんだ。おめでとう」
その言葉でこの話題は終わらせるつもりだったのだけれど。
簡単には終わらなかった。
「結婚式の相談、してもいいですか?」
その彼女の一言で。
それきり、の話にはならなくなった。
*
それからというもの、やれ結婚指輪だのドレスだの、引き出物だの。
私が一緒に考えるのはおかしいでしょ?という内容の相談が、仕事の案件よりも多くもたらされるようになった。
「だって先輩ひまでしょ?」
「まあ……マンションに帰っても一人ではあるけれど」
「それをひまっていうんです」
「ぐ」
芽衣のあんまりな言い分に言葉に詰まってしまう。
ひまというか、なんというか。
「そうだ。ごはん作ったりするからひまじゃない」
仕事終わりに持ちかけられる相談に辟易してそんな言葉でふんわりと断りをいれようとしても。
「あ、じゃあ先輩の家に行ってもいいですか?ごはん作ります」
「あーそういうことじゃなくて……芽衣は料理得意なの?」
聞くと芽衣は心持ち胸を張る。
鼻も高くなっているような気がする。
「はい、料理のできない人と結婚してもちゃんと教えてあげられるようにと思って。昔から料理も掃除もなんでも」
「やってあげるんじゃなくて教えてあげるの?」
「はい、だから料理大丈夫なんです。ごはん作りにいきますよ」
「他に友達いないの?」
そういうことも何でも、もっと友達に相談したほうがいいのではないかと。
「まあはっきりいえばいますけど。ちょっと事情があるので一番近しい人は先輩です」
「えええ。私……?」
うんうんと頷く芽衣が真剣な目をしている。
頭を抱えたくなったけれど、そのまなざしで腹をくくった。
*
大体、芽衣の結婚相手も知らない。
4月1日という年度始めの忙しいその日を狙って結婚式をするなんてありえない。嘘みたいだ。
そしてそして。
部署のだれも、芽衣の結婚の話を知らない。
だれも。
これは確かなことで、芽衣からも『伏せておいてください』と言われている。
何の意図があるかなんて本当のところはわからないけれど、周りに言いたくないという明確な意思表示だとわかる。
私はふっとため息をついて、部署のフロアを見渡す。
すると、こちらの様子をうかがうように首を伸ばしている人がいた。
安達洋平。
ほんの半年前までつきあっていた私の元カレ。
顔を合わせたくなくて視線を逸らした先に、芽衣の姿があった。
洋平のほうを見ている。
二人がわずかに視線を絡ませたように見えた。
もしかして。
もしかして、芽衣の結婚相手って。
*
金曜の仕事終わり。
芽衣がどうしてもごはんを作らせてというので、一緒に帰ることになった。途中、スーパーに寄って買い出しをする。
「先輩、何が好きですか?」
カゴを持って芽衣が聞いてきた。
食品売場の明るい呼び込み音楽をいつもは一人で聞いているけれど、芽衣の鼻歌まじりの声を聞くのも悪くなかった。
野菜コーナーで、キャベツと大葉を手に取っている。
カゴにそれらをすとんと入れたところで振り向いて、心配そうな顔をする。
「先輩、魚、好きですか?」
ああ、そういうこと。
「うん、好き」
私の返事にほっと安堵の表情をみせる芽衣が後輩らしく幼く見える。
「よかった。ランチ行くときとかお弁当とか、魚多いですよね」
「よく知ってるね」
感心して返事をする。えへへと芽衣が笑う。
「ほら、式の料理考えるときも。魚料理のときに先輩の目が輝いたんで」
式の料理。
洋平も魚が好きだったんだよな。
あ、なんかもやっとすることを思い出した。
別に喧嘩わかれとかじゃなくて、なんとなく生活のペースが合わないなって感じ始めて。それで別れたんだけれど。会社で顔を合わせるのは仕方ない。
辞めるつもりもない。というか辞めるにはもったいないホワイトな会社。
そうだ、芽衣は。
「そういえば、会社辞めるの?」
「え?」
なんとなく。
社内結婚したら、どちらかが部署を代わるのが通例だから。
なんとなく。
芽衣が結婚……する相手が洋平なら、同じ部署内だからどちらかが異動かな、と。
異動するなら辞めるって人もいないこともない。少ないけど。
こんないい会社だけど。人の価値観ってわからないから。
「辞めませんよ」
「異動は?」
「しませんよ」
しませんよって。芽衣が決められることではないのだけれど。
じゃあもしかしたら洋平が異動か。
なんとなく。
洋平の担当の係は私たちと関わりがあるわけだし。
異動となると、新しい人と一緒に仕事するのか。
……まあ。
それも会社の年中行事か。
あれこれ考えているといつのまにか進んでいた芽衣が、魚コーナーから手を振っていた。
「先輩、鯵フライって好きですか? 大葉を挟みます」
「好き」
即答する。
肉厚の鯵フライをだす定食屋さんが職場近くにあって、かなりリピートしているくらい好きだ。思い出すと口の中が鯵フライになってくる。
「やっぱり」
ふんふんふーん、と鼻歌をうたって芽衣が魚売り場で目を光らせる。肉厚のそれを見つけて芽衣が私を振り返った。
ほら見て、と大きな鯵が5尾入ったパックをぐいと見せてくる。
にこにこの顔がなんとも可愛らしい。
こんなふうに料理をしてくれるのなら、相手もさぞ嬉しいだろうなと思った。
*
『金曜日は鯵フライおいしかった。ごちそうさま』
月曜になって、鯵フライのお礼を芽衣に告げようと、芽衣を探した。珍しく始業10分前になっても私の隣にある彼女の席にいなかった。
給湯室でコーヒーでも淹れているのかもしれない。
席を立って探しに行く。
コーヒーの匂いが鼻をくすぐって、給湯室で誰かがコーヒーを淹れていることを教えてくれていた。
ドアをガラリとあけようとしたとき手が止まる。
ドアのガラス窓を通して人が見えた。
男性と女性。
洋平と、芽衣だった。
二人は声をだして笑っていた。
*
なんだ。やっぱりそうだったんだ。
洋平との結婚式について相談を私にしてくるなんて。
元カノの私に。
もやもやする。
いや、むかむかする。
だまされたわけではない。
芽衣は相手について黙っていただけだ。
でも。
書類を黒塗りにするように、隠していた。
真実はちゃんとあるのにそれを塗りつぶして隠して。
結局給湯室の二人に声はかけずに自席に戻った。
一日中もやもやが止まらなかった。
*
「先輩、今日もいいですか? 相談」
芽衣が無邪気にかけてくる声がもやもやを真っ黒い何かに変えていく。ついつい声が荒くなる。いつもなら聞かないことが口からあふれてくる。
「芽衣って誰と結婚するの」
「え」
「私の知ってる人?」
「え」
突然の質問に、明らかに困惑した顔。芽衣の目が泳いでいる。
「ねえ、知ってる人? 洋平?」
「ち、がいます。それは先輩の元カレでしょ?」
洋平の名前を出したのに否定してくる。
──肯定しなさいよ。
──洋平なんでしょ?
「ねえ、洋平なんでしょ? ねえ、言ってくれていいのに。元カレ元カノなんて気にしてないよ。──それともさ。私のこと笑ってたの?」
「安達さんじゃないし、笑ってないし」
「うそ。どっちも嘘。笑ってるでしょ? 奪ってやったみたいな? 私の勝ち、みたいな? でも残念でした、ちがうから! 私たちとっくに別れてたんだから」
そんなことない、笑ってなんかないです、もごもご口走りながら芽衣が口元を手のひらで押さえて首を横に振る。
「そんなのうそでしょ」
「嘘じゃないです。うそじゃ、なくて」
「うそ」
嘘嘘嘘嘘嘘嘘。
なんで嘘つくの。
はっきり言えばいいのに。隠して。
そんなの私がかわいそうな人みたいじゃない。
私は。
かわいそうなんかじゃない。
*
気がついたら更衣室のソファで寝かされていた。
芽衣が心配そうに覗き込んできている。
目が合って、芽衣が大きくため息をついた。
「よかった」
それだけ言うと、私の頬に手をふれて、そっと離れていった。
「もう少し、寝ててください。ちょっと寝不足でしたか? あんまり相談相談って押しかけたりしてたからよくなかったですね。もう」
もう相談辞めますね、と言って芽衣は立ち上がった。そして静かに呟く。声が小さくて、聞こえないくらいだった。
「笑ってなんかいないし、安達さんでもないですから」
そのまま部屋を出て行こうとする。
私は、ねえ、と声をかけた。
「どうして教えてくれないの?」
「だって──告白になっちゃうから」
*
それから結婚式について相談を受けることはなかった。
芽衣の相手も知らぬまま、ただ淡々と日々はすぎ、3月31日となった。
カレンダーを見てはカウントダウンをしていた私は結構馬鹿だと思う。
ただ黙々と仕事をこなし、それは芽衣も同じで。
3月31日の仕事終わりの時間になって急に課長が立ち上がった。
正直、時間外になるわけだし迷惑だな、なんて思っていた同僚もいたと思う。
「岩崎芽衣さん、今日で辞めることになりました。ご自分の地元に戻るそうです。岩崎さん、挨拶を一言」
一瞬ざわついて、すぐにしんと静かになった。
辞める? 芽衣、辞めないって言ってたのに。
うそ? 嘘だったんだ。
頭の中がぐるぐるしていた。
課長に促され、芽衣が前に進み出る。
「今日まで、ありがとうございました。地元にもどって一人で実家の畑でも耕そうかと」
えへへ、と芽衣が笑い、周りもふわりと笑った。
最後の最後まで、ふわふわとした後輩だった。
『一人で実家の畑でも耕そうかと』
そんな言葉で終わるんだ。
結婚すること、課長にもみんなにも言わないんだ。
ほんとに誰にも言わずに結婚するんだ。
「結婚退社ではないです。えへへ。ちょっと実家の親の介護もあって」
ぽりぽりと頬を掻いて、芽衣が小さく舌を出した。
──そんな理由。結婚じゃない本当の理由。
初めて聞いたよ。それも嘘?
何が本当かわからない。
私はじいっと芽衣の顔を見つめていた。
*
翌日、4月1日。平日、週の真ん中。
芽衣の結婚式、と教えてもらっていた日。
私は仕事中にもかかわらず、何度も芽衣に連絡をとっていた。
電話をかけて、メールをいれて。
なのに電話はとってもらえず、メールは未読のままだった。本当に本当は式の最中なのかもしれないと思いつつ。
芽衣は昨日で退職していて──本当に退職していて──いつのまに掃除をしたのか、朝出勤したら彼女の机はまっさらになっていた。
必死な顔でスマホをいじる私に、洋平が声をかけてきた。芽衣と結婚式、ではないようだ。
スマホを見つめたまま彼に対応する。
「岩崎さんに連絡?」
「何か知ってる?」
「たぶん、知ってる」
「え?」
私はスマホから顔をあげて洋平を見つめた。
そうか。二人仲良くしてたから。
「仲良くなんかしてないけどね。おまえと別れたとき、岩崎さんが俺のところにきたんだ。先輩のこと、どうしてやめちゃうんですかって。やめちゃだめなのにって」
「やめちゃだめ?」
「そう。俺がおまえと付き合うのやめちゃうと、困るんだって言ってた。抑えられなくなるからって」
「──洋平のこと、好きってこと?」
洋平は頭を横に振った。肩をすくめて、ちがうよ、と呟く。
「それ以上は本人から聞いたほうがいい。本人が口を割るかどうかはわからないけど。とにかく俺が伝えることじゃない」
何言っているの。
よくわからない。
芽衣は結局何がしたかったの。
あんなに相談相談って。
結婚式のドレスから、食事から、引き出物、招待状も。
何もかも一緒に考えていたのに。
一緒に。
あんなにも。
──楽しかったのに。
*
4月1日が終わろうとしていた。
芽衣に連絡は取れず。
結婚式は本当はどうなったのか、聞きたくても聞けず。
ぼんやりと仕事をしていて、何度も大切なファイルを消去しかけていた。馬鹿だな。後輩がいなくなったくらいで。
本当に、馬鹿だな、私。
ぷるるるるる
その時、スマホが音をたてて振動した。
電話だ。
相手は。
相手は、芽衣。
芽衣からの電話だった。
今更ながらストーカーのように連絡をしたことに気が引けて、恐る恐る電話に出てみる。
呑気な声が聞こえてきた。
「あ、先輩? 何度も着信ありがとうございました。あのね、私」
「いま、どこにいるの? 結婚式は?」
「──式は、してない。全部うそ。会社も辞めないって言ってたのに。ごめんなさい。あのね、先輩あのね、怒らない?」
「あきれてる」
ふふ、と電話の向こうで声がした。
そっか、と呟く声も。
「どこにいるの?」
「あのね、先輩のマンションの、部屋の前」
*
大慌てで退社して、そのまままっすぐに家に向かった。
ほんとに、ほんとにもう。何を考えているんだろう。
あの子は本当に。
ずっとそんなことを呟いて、小走りで家に向かう。
芽衣の待っている、私のマンションに。
「あ、おかえりなさい、先輩」
肩で息をしている私と対照的に、芽衣はのんびりした声で立ち上がった。玄関ドアの前でずっと座っていたようだった。
「先輩?」
首を傾げて聞いてくる芽衣がいつもの芽衣で、いつもの後輩の芽衣で、私はつい口元が緩んでしまった。おかげで、声を荒げずにすんだ。
「ねえ、芽衣。私、結婚式のこと考えるの、一緒に考えるの、すごく楽しかったの。でももしかしてあれは、私のことからかってたの?」
「ちがう。私も楽しかった。私、好きな人と、結婚式のことを考えることができて、すごくすごく楽しかった」
「すきなひとと」
「今日って、4月1日でしょ。何を言っても、何を聞いても、全部忘れていい日なの。だから、忘れてもいいから聞いて? 私、先輩のこと」
「ちょっとまって」
「やだ言いたい。先輩のことが」
「待って。家の中に入って。人目があるし」
マンションの廊下で大声をあげていては、どんな好奇の目でみられるかわからない。
鍵を開けて部屋に入る。
私が先に立ってリビングまで入って。
芽衣は大人しくうしろからついてきた。
私は芽衣に背を向けたまま言葉を紡ぐ。
「楽しかったよ。私も結婚式のこと、考えててすごく楽しかった。自分もこんな結婚式がしたいって思ってた。ずっと」
「たのし、かった。私もずっと一緒に考えてて。先輩と。ほんとは先輩と結婚式したいと思って考えてた。女同士だけど私、ずっとずっと先輩のことが」
鼻をすする音が聞こえて、私はくるりと振り向いた。
目を真っ赤にした芽衣が立っている。
ハンカチで鼻を押さえて、ううう、と唸って。
なんだろう。この子のこういうところが、とてもとても可愛いと思う。
「私も、芽衣とああいう結婚式したいなって思ってた。好きってこういうことかな。すごくいま、嬉しいと思ってる」
芽衣が私に一歩近づいてくる。
手がおずおずと伸びてくる。
その手を、私は引き寄せた。
*
今日は4月1日。
忘れてもいい。なかったことにしてもいい。
覚えていてもいい。嘘じゃなかったと信じてもいい。
全部、夢の中のことだって思ってもいい。
夢じゃない。
本当のことだって、思ってもいい。
今、目の前で。
触れることのできる好きな人を、離さないように。
ぎゅっと抱きしめていてもいい。
私は芽衣とぎゅっと抱き合って、今日という日の幸せを噛みしめる。
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