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おねしょをしてしまった。シルバーカーを押してヘルパーさんの詰所に行った。ヘルパーさんは部屋にきて、シーツやらなにやら替えてくれた。そして、
「紙パンツにする?」
と、訊いてくる。私は、普通のパンツで大丈夫だと答えた。
「もう一回、お手洗いに行ってから寝ようね」
ヘルパーさんは私についてお手洗いへ行った。あまり尿は出なかった。
「心配だからパットを当てておこうね」
ヘルパーさんはアンネみたいな尿取りパットを当ててくれた。
「よく眠れたらいいね」
ヘルパーさんは部屋を出て行った。そのあとはよく眠れたと思う。
昼間、起きて食堂に所在なく座っていても、自分の目が覚めているのか、今も眠っているのか判然としない。終始、頭がボーッとして、いつからこんな風だろうと思う。そのまま、うとうとしてみると、ヘルパーさんが、
「休憩所で新聞でも読んできたら」
と、勧めてくれる。じゃあ、折角だから、と休憩所へ行く。新聞を読んでみるけど、何度も同じことを書いてあるような気がして、内容が上手く頭に入ってこない。でも、読んでみると退屈は紛れるような気がして、ずっと読んでみる。今日の占いが書いてある。私は五月生まれだったかしら、六月だったかしら。六月のように思う。
「五月:ファンや支持者の信頼集める。人気絶大。
六月:用心はしても、し過ぎることはない。石橋叩いて」
と、ある。
六月生まれの占いはいい教訓だと感じた。シルバーカーにチラシで作ったメモ帳が入っているので、書きつけておこうとシルバーカーの中を漁る。広告チラシの裏紙に俳句を書きつけたものがたくさん出てきて、そうだ俳句を作ろうと思い立つ。休憩所からは外が見える。雑草ばかりの殺風景な外が見えて、花でも植えればいいのにと感じる。季節感も何もない。こんな環境で俳句は無理だろうけど、次の教室までには何とかひねり出さなくてはならない。できたら、事務所に持って行く。すると先生に提出してくれて、次の教室では添削される。そうしたら最終的には、事務所が句帳を作ってくれるし、外にも貼りだしてくれる。なんとか俳句を作らなくては。今の季節はなんだろう。
ねねさんが呼びにきて、ツツジを見に行こうという。
「俳句が作れるね」
と、ねねさんがいう。ねねさんは、本当に私の気持ちをわかってくれる。痩せぎすのヘルパーさんばかりの中に、ねねさんだけが、丸っこくてコロコロしていて、一番若くて、可愛い。ねねさんが大好きだ。ヘルパーさんは、薄いピンク色の割烹着を着ている。看護師さんは白い制服だ。ねねさんはピンクを着ている。ねねさんは本当にピンクが似合う。早くいいところにお嫁に行けたらいいのにと思う。でも、それは少し寂しいようにも思う。ねねさんが幸せになりますように。
私は車いすに乗せられて、さらに車に乗せられた。ツツジがたくさん咲いている寺に連れて行かれた。団子とお茶が出てきた。ねねさんは来なかったようだ。団子を食べて、お茶を飲んで、車いすに座って、ボーッとした。
ツツジは春の季語だろうか。じゃあ、今は春なのか。ツツジの濃いピンク色は嫌いだ。派手過ぎるのよね。桜のようなのを私は好む。でも、外に出してもらえたのは、良かった。空気がおいしい。あの施設はどこに行っても臭すぎる。
薄い桃色で、中心だけが濃いピンク色のツツジもあった。こういうのは好ましい。主張がつよいものは、人間でも嫌だ。何事も控え目がよろしい。
帰ってきて、シルバーカーを与えられて、自分の病棟に戻った。ねねさんが、
「俳句、作れた?」
と、訊いてきた。私は、作れなかった、と答えた。
「ツツジを見たのに」
と、ねねさんがため息をつく。私は、ツツジなんて、見てない。後ろから、たくさんの老人が戻ってきた。私は、おやつはまだかと、ねねさんに尋ねた。
「お寺で食べたはずよ」
と、ねねさんがいう。私は、お寺なんて、行ってない。みんなは行ってきたのかと問うた。
「ハルさんも、行ったよ」
と、ねねさんがいう。私だけ、連れて行ってくれなかったのかと、ねねさんに訊いた。ねねさんは困ったような顔をした。他のヘルパーさんがきて、
「しばらく、ほっときなよ」
と、いった。ねねさんは、私に、
「今日は、おやつはお休みなの。ハルさんは、栗ほろろの買い置きがあったよね。お茶を煎れてあげるから、一緒に食べようか」
と、いった。私は、ねねさんにお茶をもらって、ねねさんと食堂に向かい合って、栗ほろろを食べた。
「お腹、空いてたの」
ねねさんに、私は甘えた。
「外が暑かったから、喉が渇いたのね」
ねねさんが、いう。私は、なんのことか分からなかったけど、ねねさんとお茶ができて、良かった。
「俳句ができないの」
「そう、無理はしないでね」
「俳句は好きよ」
「ハルさんは、いつもいい句を作ってるね」
ねねさんといると落ち着く。お嫁に行かずに、ずーっと私とこうしていて欲しい。
ある朝の食後、部屋から追い出された。
「ハルさん、運動するから広場に行って」
後ろは戦争みたいになっている。広場へ行くと、椅子が円形に並べられていた。椅子に座って、大きな柔らかいボールを蹴っ飛ばしたり、体操をしたりした。部屋に戻ると、シーツが新しいものに替えられてある。気持ちよくベッドに腰かけた。
お菓子を食べようとタンスを開けると、中が片付いていないのが気になった。タンスを整頓することにした。広告の裏紙がいっぱい出てきた。そうだ、俳句を作らなくちゃね。でも、この服をしまうのはこっちがいいかしら。お菓子の食べかけの袋が何袋も出てきた。また、お菓子の販売がきたら、今度は黒飴を買おう。塩飴も欲しいわね。あらあら、昔の句の書きさしが出てきた。ふむふむ、これはもう少しひねるべきね。こっちのこれは、こんなの書いたかしら。
同室の人が叫び出した。
「看護婦さん、看護婦さん!」
寝たきりの人だ。私の部屋は四人部屋で、窓側の二人は寝たきりのもよう。私はナースコールを押した。
「ハルさん、もう散らかして」
ヘルパーさんがきて、腰に手をあてて、怒っている。気がつけば、ベッドの上がいろいろなものでいっぱいになっている。
「整頓しているのよ」
「いいけどね、もう」
「あの人が叫んでいるの」
「呼んでくれて、ありがとう。ハルさんは優しいね。でも、あの人はそっとしておいて、大丈夫だから」
ヘルパーさんが寝たきりの人の様子を一応確認してから、部屋から出て行った。
「いち、にい、さん、し……」
もうひとりの寝たきりの人は、ずっと数を数えている。
「うん、うん。そうやな、◯◯ちゃん」
数を数えながら、誰かにときどき返事をしている。
「あんたのいうとおりやで」
いつも必ず、その誰かに賛同している。自分の娘だろうか。
向かいのベッドにおばあさんがすたすた歩いてきて、腰かけた。脚が達者な人だ。羨ましい。白い髪を平らに撫でつけて、頭が三角のおむすびを逆さにしたような形をしている。
「こんにちは」
私は声をかけた。相手は気づかないようで、歌うように独り言をいっている。
しばらく、こっちのものをあっちにやったり、あっちのものをこっちにやったりしていたら、薄水色の制服の子がきた。躰の大きな女の子だ。
「ハルさん、リハビリの時間」
薄水色の制服の子に連れられて行くと、脚全部がすっぽり入る大きな靴下のようなものを穿かされた。靴下は空気で膨らんだり、しぼんだりしながら、脚を締め上げてくる。
「これ、気持ちいいわね」
薄水色の制服の子にいった。
「電気もあてるね」
肩にタオルをかけられて、そのうえから柔らかく緑に光る円盤を当てられた。円盤は生成り色に塗られた金物の箱から電気スタンドみたいに伸びて出ている。白熱球のところにカバーが被さっていて、緑色にぼんやり光る。温かくて気持ちがいい。薄水色の制服の子が生成り色の金物の箱についているつまみやボタンを調節してくれた。
「終わったら、先生にマッサージしてもらおうね」
薄水色の制服の子は、またどこかへ行った。私はそのまま気持ち良くてうとうとした。
「ハルさん、マッサージだよ」
気がつくと、薄水色の制服の子が戻っていた。
「この椅子で眠ると危ないから、寝ないでね」
私が座って電気を当てられていた横に柿色の低くて広い台があって、人がいるなと、思っていた。男の先生と女の先生だ。二人とも看護師さんとは形の違う白い制服を着ている。女の先生は細い人でとても長い髪をうしろで一つに束ねている。男の先生は、肩の広いがっしりした人だ。私は体格のいい人が好き。男の先生は眼鏡をかけている。男性の眼鏡も好ましい。
男の先生がマッサージしてくれるらしい。柿色の台の上に行くと、先生に肘を曲げたり、伸ばしたりされた。柿色の台は少しふかふかしている。
「ハルさん、手のしびれはどう?」
男の先生が訊いてくる。私はどうして手がしびれることを男の先生が知っているのかと、驚いた。
「左の腕がやっぱり少ししびれるの」
男の先生に訴えた。
「そう」
先生は腕をマッサージしてくれた。それから、肩や背中も揉んでくれた。
「ハルさんは、昔、軽い脳梗塞をしたから、しびれはしかたないわね」
女の先生が優しく声をかけてくれる。
「そうなの? 私も知らないことを先生は知っているのね」
私は感心した。女の先生は優しい表情で笑った。
私がマッサージを受けている台の前に按摩器が二つあって、丸々と太ったおばあさんと、恰幅のいいおじいさんが座っていた。二人は「わははは」と、大きい声をあげて話している。隣の病棟の人だ。丸々としたおばあさんは、躰の半分が動かないみたいだけれど、ご自分で杖をついて歩くことができる。おじいさんは、高そうな自前の歩行器を押している。二人はとても仲良しで、羨ましくなる。おじいさんは素封家で、隣の病棟の個室に入っている人だと思う。個室は高い。おばあさんは丸々として可愛らしく、しわもあまりない。
「仲がいいわね」
私はため息をついた。
「お二人は、もう連れ合いを亡くされているから」
女の先生がいった。そして、
「ハルさんは、御主人が毎週おいでるじゃないですか」
と、続けた。
私はまた、ため息をついた。
「あんな、痩せぎすの人、好きじゃないわ」
「え?」
「昔は、結婚相手なんて、自分では選べないから仕方なく」
「でも、御主人はお優しい方だと思います。大切にしてくれているように思うけど」
「主人は、家で、暮らせているのに、私はどうしてこんなところに預けられているのかしら」
「……」
「ごめんなさいね。こんなところなんて」
「ここにいたら、健康管理もしてもらえるし、長生きができると思いますよ。息子さんもハルさんのお躰のことを考えて、ここに決められたのだと思います」
「息子や孫と一緒にいたいわ」
「御主人が会いに来て下さっているじゃないですか」
マッサージが終わると、薄水色の制服の子が足首に砂袋を巻いてくれた。柿色の台の端に座れという。
「足を上げる練習しようね」
片足を十回ずつ持ち上げた。
「はい。ハルさんの今日のリハビリは終わりです」
薄水色の制服の子がいった。
私がシルバーカーを押して立ち去ろうとすると、女の先生が小声で男の先生に話しかけているのが聞こえた。
「ハルさん、お孫さんの事故のこと、忘れて……」
「しっ」
男の先生が怒ったようにいった。女の先生は黙った。
孫? 孫がどうしたというのだろう。
心の中が騒めき立った。
みんな、年寄りは耳が遠いと思っている。でも、私は、目、耳、鼻は達者なのだ。
私は自分の病棟のヘルパーさんの詰所へ行って、孫のことを訊こうとした。
「どうしたの、ハルさん」
知らないヘルパーさんがいた。ねねさんはいなかった。
私は訊こうとしていたことを思い出せなかった。でも、心の中が嵐のようになっている。話して全部吐き出したい。
思うままに、話し続けた。ヘルパーさんは数人が入れ替わり立ち代わり、交代で聞いてくれた。
「ご飯になったら、呼んであげるから、少しお昼寝したら」
ヘルパーさんにいわれて、自分が疲労困憊していることに気づいた。部屋に戻って、眠った。
主人がやってきた。着替えとお小遣いを持ってきてくれたのだ。洗濯物を渡して、千円札を受け取る。
主人は小言ばかりいう。いつも不機嫌そうで、一緒にいるとこっちも憂鬱になる。
「菓子ばかり買わないで、控えろよ」
などといいながら、お小遣いをくれる。確かに、一週間のうちに千円もお菓子を買うのは買い過ぎだ。いわれなくても控えている。少しは蓄えもある。だから、毎回お小遣いをくれるたびに小言をいうのは余計な心の負担になるので、やめて欲しい。
主人は帰ってしまった。連れて帰ってくれなかった。
私はシルバーカーを押して、自分で家に帰ることにした。玄関まで誰にも会わずに行けた。自動ドアを通り抜けると、音楽が鳴り始めた。気にせず外へ出た。外はすぐ下り坂で、シルバーカーにブレーキをかけながら、用心して下りた。
門から外へ出ると、やはりずっと下り坂だった。景色がとても高い。ここは山の上なのか。しばらく行くと、脚が痛くなってきた。ブレーキを握る手もしびれる。苦しくなってきたとき、ヘルパーさんや看護師さんが四人くらい走ってきて、シルバーカーを掴んだ。そして、私はあとからきた車に押し込まれて、連れ戻された。
薄水色の制服の子と少し話をすることになった。
「ハルさん。自分で歩いて帰るのは無理だよ」
「どうして、主人は家にいて、私はここにいなくちゃならないのかしら」
さめざめ泣いた。
「ここはいいとこでしょ。色んな人がいっぱいいて。ハルさんは、御主人よりお友達がたくさんいて、いいなあ」
「私は、息子や孫に会いたかったの」
「息子さん、先週おいでたじゃない」
「私は、会ってないわ」
「私と三人で会ったじゃない」
「会ってないわ。息子は私に会わずに帰ったの」
「えーと、あ、うーん」
また涙が流れた。
「あー、私の勘違いだ。先月だったかもー」
しばらく泣いていた。薄水色の制服の子は突然まったく違う話を始めた。昔話かと思ったら、例え話のようだ。ものすごく遠回りの話だった。しばらく聞いていたら、頭がボーッとしてきた。
「あ、で。何の話だったかな」
「さあ」
何を話していただろう。
「あ、ハルさん。今日はいまから、おやつ作り教室があるのです。ジャーン。今から行きましょう」
薄水色の制服の子について行くと、可愛らしいエプロンをつけられた。少し嬉しかった。同じようにエプロンをつけた老人が数人テーブルについている。テーブルにはホットプレートが三台置いてあった。
「ハルさん。栄養士の先生です」
リハビリの先生みたいな白い制服のおかっぱの人を紹介された。痩せた人だ。
「今から『かわらもち』を作ります」
栄養士さんがいった。
かわらもちというものは、私は知らない。用意されたタネを見ると、ホットケーキのようだと思った。
「できたら、皆で食べようね。きっと、とってもおいしいよーん」
薄水色の制服の子がいった。誰からも反応が無い。私の隣にいるおばあさんが、
「何をいっているのかしらね。よく聞こえないわ」
と、私に話しかけてきた。白いおぐしを平らに撫でつけて、頭が三角のおむすびを逆さにしたような形のおばあさんだ。口が臭い人だと思った。ちゃんと入れ歯を洗っているのかしら。でも、そんなこと口にだしたらいけないわね。
薄水色の制服の子は、そのままいて私たちと一緒にかわらもちを焼いた。ホットプレートに円くタネを置いて平たく焼く。裏返して両面焼く。やっぱりホットケーキだ。
ホットケーキは大好き。孫娘がよく焼いて食べさせてくれた。私も主人もホットケーキが大好きだから。だのに、主人ときたら。孫娘がホットケーキを焼いてくれるたびに、『にくてん』の話をする。私はにくてんのこともよく知らないが、お好み焼きのようなもののことらしい。どこで誰に作ってもらったんだか。連想するのだろうけれど、ほかのものを褒め、引き合いに出す。出されたものを素直に喜べば可愛いのに。気が利かないじいさんだと思った。孫に申し訳なかった。
おやつに自分たちで焼いたかわらもちを食べた。やはり、味の淡白な餅に近いホットケーキだと思った。美味しかった。美味しかったけど、孫の焼いたホットケーキが食べたくなった。孫に会いたい。
孫は何歳になっただろう。
お嫁にいけるのだろうか。まだ、お嫁には行っていないと思うのだけれど。私に黙ってお嫁に行く訳がないし。いいところへお嫁に行って欲しい。孫に幸せになって欲しい。
夜になって、怖い夢を見た。
孫娘が歩いている。ちゃんと歩道を歩いている。片手によちよち歩きのひ孫の手を引いて、もう片方の手でもう一人の赤ちゃんのひ孫を抱えている。
そこに、ダンプカーが突っ込んで、来た。
次に見たのは、孫の夫がお葬式で号泣する姿。
私はいつのまにか、ベッドに起き上がって、泣いていた。
「どうしたの」
ねねさんが来た。今日の夜勤はねねさんだったのね。私は、それだけでほっとした。
「お茶煎れてあげるから、こっちおいで」
ねねさんと食堂へ行った。
「嫌な夢を見たの」
「どんな、夢」
「覚えていないわ」
でも、胸がどきどきして、不安で、悲しかった。
「今日、外へ出たんでしょ。疲れてるのよ」
「疲れてるのかしら」
涙が止まらない。
「泣いたら、涙と一緒に嫌な気持ちも出ていくんですって。いっぱい泣くといいよ」
ねねさんが向かいに座っている安心で、黙って泣いていた。
ときどき、ナースコールが鳴って、ねねさんは「ごめんね」と席をはずす。しばらくして、また戻ってくる。また、前に座って見守ってくれる。
「お茶、煎れ直すね」
温かいお茶を飲むと少し落ち着いた。
「こういうときは、甘いものを少し食べるといいよ」
私は首を振った。心の中にずーっと、冷たい雨が降りしきって、いた。
しばらくして、周りが白々と明るくなった。涙が乾いてきた。
「少し眠ったら? 遅めに起こしてあげるから」
私はうなずいて、お手洗いに行ってから、ねねさんと自分の部屋に戻って、眠った。
「おはよう」
ねねさんが起こしてくれた。
「もうすぐご飯ですよ」
「はい」
「気分は?」
「悪くないわ」
「良かった」
私は、なんのことかよく分からなかった。
「私、今から帰るからね」
「はい」
ねねさんがクスリと笑った。
「ねねさん」
「はい」
「お嫁に行っても、ここにお勤めしてね」
「ふふふ」
「お願い」
「私、結婚していますよ」
「え。お相手は」
「ここにお勤めしている人ですよ」
「そうなの」
「子どもも四人いるんですよ」
「そんなに若いのに。四人!」
「若くはないのよ」
「私はねねさんが、ここのヘルパーさんの中で一番若いと思ってた」
「全然若くないですよ」
ねねさんがまたニコニコした。
「安心した。私とずっと一緒にいてね」
「はい。主人も今度紹介します」
「はい」
ねねさんは帰って行った。
私の心が明るくなっていた。
ベッドの上に引き出しの中の物を広げて、タンスの中身を整理していた。窓際の寝たきりの人が叫び始めた。私はナースコールを押した。ヘルパーさんがきた。
「ハルさん。あの人は心配ないからね。叫ばせてあげて」
「そうなの」
「でも、ありがとう。ハルさんは片づけをしておいてね」
ヘルパーさんは一応、寝たきりの人を確認して出て行った。
薄水色の制服の子がきた。
「こんにちは。ハルさん」
「どなた?」
「ここの施設の相談員です」
「はじめまして」
「今日は今からお習字教室がありますよ」
「あらそう。行かなくちゃね」
「待ってますからね。来てね。向かいの病棟の食堂ですよ。私は他の人も呼びに行きますから」
「はいはい」
部屋から出て、広場を通って向かいの食堂へ行こうとした。
途中に休憩室があった。
「あ、今日の新聞を読んでいない」
休憩室で新聞を読むことにした。新聞を取ろうとすると、窓から裏庭が見えた。雑草ばかりが生えていて、殺風景な事限りなし。花でも植えりゃいいのに。
新聞を読んでいると、歩くのが達者なおばあさんがすたすた通りかかった。
「こんにちは」
「あら、こんにちは」
何か歌を口ずさみながら通り過ぎた。歩くのが達者で羨ましい。あのくらい、歩けたらね。頭が逆さのおむすびみたいな人ね。
「ハルさん。習字教室ですよ」
薄水色の制服の子が隣の病棟から出てきて、車いすの人を押してゆきながら、私に声をかけた。
「あらやだ。知らなかったわ」
「早く、来て」
「はいはい」
食堂のテーブルには新聞紙が敷きつめられ、お習字の道具が並べてある。
「ハルさんは、いつもここです」
「よろしい感じのところね」
「お気に入りの場所ですもんね」
「そうだったかしら」
座ってみると大変よろしいような感じがする。窓から景色がよく見えた。下り坂と駐車場と鉢植えと遠くの山が見える。花がたくさん植えてある。大変よろしい。遠くにツツジの垣根も見えた。今はツツジの季節なのね。
今日は、『五月』という字を書くらしい。習字の先生もいらっしゃっていた。一生懸命練習した。
「ハルさん。新聞紙に書かないで、半紙に書いてください」
「もったいないですよ。半紙は貴重よ」
「半紙のお代金は頂いていますから、大丈夫ですよ。半紙もたくさんありますから」
「いいえ。もったいない」
周りを見渡すと、みんな新聞紙に書いている。
「ほうら」
「あー、みんな、半紙に書いてください」
書き上がると、薄水色の制服の子が、事務所の前の掲示板に並べて貼ってくれた。
「ハルさん。上手に書けましたね」
「こっちは?」
「ここには先月のハルさんの俳句を貼ってあります。俳句教室は来週ですよ。また、呼びに行きますからね。大丈夫」
「楽しみね」
「ハルさんは、今からリハビリですよ」
掲示板の斜め向かいのリハビリ室で、椅子に座らされて、大きな靴下を穿かされた。この靴下は膨らんで脚を締めつけて、とても気持ちがいい。肩に電気も当ててくれた。
向かいの二台の電気按摩機に恰幅のいいおじいさんと丸々としたおばあさんが座っている。おじいさんはずらりと並んだ金歯を光らせながら、豪快に笑っている。
「仲がいいわね。羨ましいわ」
薄水色の制服の子にこっそりいった。
「お二人でよく喧嘩していますよ」
「そうなの」
「お二人とも意見がしっかりした人だから」
「へえ」
恰幅のいいおじいさんは高級そうな歩行器を押して帰って行った。
男の先生と女の先生のところへ、こざっぱりしたおじいさんが二人きて、マッサージしてもらうようだ。二人は兄弟かと思うくらい、よく似ている。細身でしゃんと歩いていて、白髪頭が少し薄くて、短髪で、寡黙だ。
丸々としたおばあさんは、滑車の方へよっこいしょと歩いて行って、動かない方の手を滑車で上げたり下げたりしている。
丸々したおばあさんが、薄水色の制服の子に話しかけている。
「この躰の半分が、いうこときかないのが、イライラする。切って除けたいわ」
女の先生が、気の毒そうにおばあさんの方を見た。
「躰の半分は、多分、お空の向こうで、御主人と仲良くしてらっしゃるんだと思いますよ」
「へえ」
「ご主人が半分だけ、連れて行っちゃったんですよ。寂しいから。でも、全部連れて行ったら悪いと思ったんでしょう。だから、半分だけ」
「すごいね」
女の先生が薄水色の制服の子を褒めた。何がすごいのかしら。
「ずばり、というね。この子」
丸々としたおばあさんも水色の制服の子を褒めて、去って行った。
「なかなか、いい、解釈だったね。本人はぴんときてなかったみたいだけど」
女先生と薄水色の制服の子が話している。
「作家志望ですから」
「あ、ハルさん。寝てる」
女先生がこっちを見ていった。
「え。寝ていませんよ。頷いていただけ」
「ハルさん、その椅子で眠ると落っこちちゃうから、寝ちゃ駄目。危ない」
「寝てないわよ」
「船漕いでたでしょ」
「寝てません」
男先生にマッサージしてもらって、薄水色の制服の子と足上げ運動をしてから病棟に帰った。
お夕飯。自分の名前が書いてあるテーブルの席に着いた。白髪をキレイに撫でつけて頭が平らな逆さのおむすびのような顔をしたおばあさんがすたすた歩いて私の隣の席に着いた。この人は口が臭うわね。ちゃんと入れ歯洗浄しているのかしら。でも、そんなこと口にしたら悪いわね。
そもそもここはどこもかしこも臭い。隣の人の息の臭いなんて気にならないくらいだ。食堂のすぐ隣にお手洗いがあるし、そのお手洗いはたまらなく臭い。お掃除もきちんとしてあるようなのにどうしてこんなに臭いのかしら。食堂はお料理の臭いとお手洗いの臭いの混ざったなんだか籠った臭いがいつも立ち込めている。部屋に戻ると、便の臭いとお菓子の臭いが混ざった、甘いような苦いような臭いでいつも淀んでいる。休憩室は少々爽やかな気がする。でも、風の通りが悪い。
隣のおむすびのおばあさんと世間話をしていると、前に寝たきりみたいな車いすの人が二人運ばれてきて席に着いた。
「お食事の前に体操ですよ」
しばらく体操した。前の二人の車いすの人は横にヘルパーさんが一人ずつついて、お食事を食べさせてあげるようだ。
今日は、魚の切り身の煮つけとおひたしと味噌汁とご飯だった。銀シャリは御馳走だ。
私が隣の人と世間話していると、前のヘルパーさんたちが笑い合った。
「この二人、いつも同じ会話」
はて。おむすびの人とは、今日初めて会ったと思うのだけれど。
「お二人はもう、三年くらい仲良しよ」
そうかしら。
「私はねねさんとお友達なのよ」
私はヘルパーさんにいった。
ヘルパーさんは二人で顔を見合わせて、
「ハルさんは、ねねちゃんとお友達なんですって」
と、笑った。
「良かったわね、ハルさん」
「はい」
隣の人は、
「私たち、仲良しですって」
と、いって、こっちを向いた。
「今日、初めてお会いしたわよねえ」
「ねえ」
二人で小首をかしげて、見つめ合った。
お食事は美味しかった。
「ハルさんは、好き嫌いがないですね。いいことよ」
ヘルパーさんが褒めてくれた。
夜中に、胸の中に不安の嵐が渦巻いた。起き上がって、シルバーカーを押して、ヘルパーさんの詰所へ行った。
「ハルさん。夜は眠った方がいいわよ」
知らないヘルパーさんがいた。
「ねねさんはいない?」
「今日はねねちゃんは、お休みの日よ」
たまらなく不安になった。
「ハルさん。お話ししてみて」
とにかく、胸の嵐を吐き出したくて、お話しした。涙が流れてきて、息が苦しい。しばらく、そうやって話していた。ヘルパーさんは、ときどきナースコールに呼ばれて行って、また、戻ってきて、話を途切れ途切れに聞いてくれた。
「ハルさん、疲れたでしょ。もう、眠った方がいいと思うの。続きは明日、聞くから」
「はい」
ベッドに戻って、横になった。でも、ずっと目が冴えて、眠れない。心の中は、雨模様になっていた。
お昼寝していると、起こされた。
「少しは、眠れた?」
ヘルパーさんが笑顔で聞いてくる。
「はい」
起き上がった。
「あまり眠り過ぎると、また、夜、眠れなくなるといけないから」
私は「俳句を作っておいで」と、休憩所に追い出された。
新聞でも読もうかしらね。
休憩所は応接セットみたいなものと、観葉植物と新聞と自動販売機が四台ある。新聞は洗濯物を干すみたいに吊るされている。色んな新聞がある。地方紙がひとつと全国紙が三つくらい。私はいつも地方紙を読んでいる。占いは必ず読む。いい教訓が書いてあるから。
休憩所に行くと、電気工事をするひとの作業服みたいな制服を着た、男性の事務員の人がきた。猫背で小さい人だ。昔の不良みたいな髪形をしている。
「ハルさん。これ」
広告チラシの裏が白いものの束をくれた。メモ帳が作れるし、俳句も書ける。
「ありがとう」
前に頼んでおいたかしらね。
「ハルさん。ねねがいつもお世話になっています」
「え?」
ねねさん? どうして、ねねさんの。
事務員の人は去って行った。
訳が分からない。
休憩室には、薄水色の制服の子が向こうを向いて座っていて、缶コーヒーを飲んでいる。
「私はこのまま、ここでみんなと老いさらばえていくのか。仕事も全然できないし、お先真っ暗だ」
と、ため息をついている。私に気づいていないようだ。ここの人は、老人は耳が遠いと思い込んで、いろいろなところで、うかつなことをいっている。
そのとき、観葉植物の陰から大きな男の人が出てきた。
「はじめまして」
男の人があいさつしてきた。
「はい?」
「今日から、ここにお世話になります」
「ああ、はじめまして」
「よろしくおねがいします」
男の人は、随分、若い。お若いのに、躰の半分がご不自由なようで、脚に装具をしている。同じ方の手もぎゅっと握りしめて、動かないようだ。でも、杖をついて一人で歩いている。大したものだ。
「あなた、そのお躰は、どうなさったの」
「柔道の試合で怪我をしたんです」
柔道! 私は昔のことを思い出した。
ゆき兄ちゃん。
叔父は柔道をしていた。私は父親を早くに亡くしたので、叔父を父親のように慕っていた。叔父に肩車をしてもらって、夜市に連れて行ってもらったりしたものだ。
叔父が大好きだった。
叔父はその後、屋根から落ちて、腰を痛めた。受け身をしたが、落ちたところにバケツがあって、上手く受け身ができなかったのだ。
叔父は腰の怪我で、戦争にはとられなかったが、若くして亡くなった。
叔父は、生涯独身で、私は、兄のようにも思っていたので、
「ゆき兄ちゃん」
と、呼んでいた。叔父は、善良で、純粋で、素朴な人だった。
目の前の男性が、叔父に見えた。叔父も体格のいい人だった。この人も柔道をしていただけあって、体格がいい。前歯が数本欠けていて、笑顔が可愛らしかった。善良で、純粋で、素朴そうだ。眼鏡をかけている。叔父も眼鏡だった。叔父にとても似ている。
「ヤスユキといいます。よろしくお願いします」
ヤスユキ! 叔父はヨシユキという名前だった。
「私はハルです。ゆきさんとお呼びしていいかしら」
「よろしく、ハルさん。いいですよ」
ゆきさん。ゆきさんは、叔父の生まれ変わりなのでは、ないか。ゆきさん。ゆきさん!
私は、ぼんやりして、自分の病棟に戻った。詰所に行って、ゆきさんのことを訊いてみた。
「あの人? うちの病棟に今日から」
ぶっきらぼうな看護師さんがいった。ゆきさんは、私と同じ病棟なのね。
「若いのに、お怪我されて。お気の毒」
「ハルさんから見たら、若いでしょうけど。二十も、下になりますからね。でも、その年で独身らしいわよ。怪我の原因は階段から落ちて、脳挫傷ですって」
「柔道で怪我されたって」
「あの人のいっていることはどこまでが本当か分からなくって」
ゆきさんの悪口をいっている! 私はカッとして、看護師さんを無視して、わざとぷいっと部屋に戻った。
それから、ことあるごとに、休憩所へ行って、ゆきさんとお話をした。ゆきさんはいつも黙って、いつまでも私の話を聞いてくれる。
ゆきさんはいつも休憩所にいる。
心の中に嵐が吹き荒れるときでも、ゆきさんにお話をすると、春風に変わる。心の中が暖かな陽だまりになる。
この気分は、俳句ではなくて、短歌にするべきかしら。
あるとき、ゆきさんが自動販売機のところで、困っていた。
「どうしたんですか。ゆきさん」
「それが、自動販売機に千円札を入れたのですが、ジュースもお釣りも出ないのです」
「まあ、大変」
詰所に行って、ゆきさんと一緒にヘルパーさんに訴えた。
「ヤスさん。ヤスさんは、ダイエットしなきゃ駄目。体重が重すぎて、脚に良くないでしょ。健康にも良くないの。ジュースなんて飲んじゃダメ。お小遣いはこちらでお預かりしているでしょう。どうして千円も持っているの。おかしいでしょ」
ヘルパーさんは、相手にしてくれなかった。ゆきさんは可哀想。お小遣いも取り上げられて、ジュースも飲めないなんて。
事務所に一緒に訴えに行った。事務員の男の人が困っていた。
「自動販売機の会社に来てもらいますから。しばらくかかるので、待って下さい」
自動販売機の人がきて、販売機を見てくれたけど、お金は詰まっていないそうだ。でも、事務の男の人がゆきさんに千円を弁償してくれた。
その後も、自動販売機はたびたび壊れた。駄目な自動販売機だ。事務の人も弁償もしてくれなくなったらしい。
ゆきさんが可哀そうなので、ジュースを買ってあげることにした。
「一日に三本は飲みたいです」
と、ゆきさんはいう。
三本。三本は私のお小遣いでは、無理だ。申し訳ないが、一日一本にしてくれるように頼んだら、それでいいそうだ。
毎日、一本、ジュースを買ってあげた。ゆきさんはとても喜んでくれた。
ゆきさんが幸せだと、私もうれしい。
私はお菓子を我慢しなければならなくなった。栗ほろろくらいは買えるから、いいとしよう。
主人に一週間のお小遣いを二千円にしてくれとは、いえなかった。少しは蓄えもある。それで、なんとかしよう。
お誕生日を祝ってくれるらしい。私は今月の生まれだとか。自分が何年何月何日生まれか、もう忘れてしまった。五月か六月なのは覚えているように思う。でも今月が何月かも知らない。かつて、お誕生日を祝われたことなんて、なかった。
私は、主人より、年上だったので、家族にも自分の生年月日は隠していた。隠し続けるうちに自分でも失念してしまった。だから、優しい孫にも祝われたことはない。祝ってくれるなら、孫を呼んで欲しいと、頼んだけれど、孫は大変忙しくて来られないとか。
広場にテーブルが並べられ、三つの病棟の人がみんな、そろった。
お誕生カードというのをもらった。私の写真が貼ってあり、『大正六年六月二九日生まれ、八三歳 大森ハルさん お誕生日おめでとうございます』と書いてある。いつのまに写真を撮ったのだろう。お花の鉢植えを後ろにして、私がにっこり笑っている。
ねねさんが、お化粧してくれた。ゆきさんが紅を引いた私を褒めてくれたのが、嬉しかった。同じ病棟だから、ゆきさんは同じテーブルにいた。お化粧した私をゆきさんに見てもらえて、本当に良かった。
薄水色の制服の子がマイクを持って、歌ってくれた。
「お誕生日、おめでと~。お誕生日、おめでと~。お誕生日、六月生まれの人~。お誕生日、おめでと~」
私は大感激した。横で二人のヘルパーさんが、
「あの子、お誕生日の歌のCD失くしたんですって」
「相変わらず、鈍くさいわね」
と、話している。
首に花輪をかけてくれた。そのあと、偉い人のお話が少しあった。偉い人は、お医者さんみたいな姿をしている。禿げ上がっていて、老人だ。私とさほど変わらないように見えた。
お食事になった。ちらし寿司、おすまし、西京焼き、ケーキが出た。私は、感激して、ずっとゆきさんを見ていた。ゆきさんも笑顔を返してくれた。
「ハルさんは、名前がハルさんだけど、夏生まれなんですね」
いつのまにか、横に薄水色の制服の子が立っていた。
眠っていた。部屋の中に、人の気配がした。向かいの人が、お手洗いに立ったのかと思った。もしくは、ヘルパーさんが、寝たきりの人を見にきたのだろうと、思った。
人は、私のベッドの横に立った。私は、夢を見ているのかと思った。眠い目をこすりながら、横を見ると、ゆきさんが立っていた。
「ゆきさん」
やはり、夢かと思った。
「どうしたんですか」
ゆきさんは、何もいわず、私に覆い被さってきた。
私の胸は、喜びで、爆発しそうだった。
ゆきさん。ゆきさん!
お風呂上りに、ねねさんが私の髪を乾かしてくれた。
「ハルさん。髪が黒くなってきたね」
ねねさんが教えてくれた。
「そう?」
ねねさんが、ドライヤーを止めて耳元でささやいた。
「ハルさんは、恋をしているの?」
私はふふふと笑って答えた。
「そうなの」
ねねさんは、少し寂しそうに見えた。
「大丈夫よ。私はねねさんとずっとお友達よ」
「はい」
ねねさんは、悲しそうに微笑んだ。
「ねねさんは、恋をしている?」
今度は私が尋ねた。
「はい」
「お嫁に行っても、ずっとここにお勤めしてね」
「はい」
「私とずっと一緒にいてね」
「はい。大丈夫よ」
ねねさんがやっとにっこりした。
お風呂の外にでると、こざっぱりした二人のおじいさんがいた。二人は兄弟のように似ている。兄弟なのかしら。短髪で、白髪で、薄毛で、細身の人だ。主人に似ている。好きじゃない。
「あんた、最近、綺麗になったんじゃないかい?」
おじいさん達が話しかけてきた。珍しいことだ。この人たちは、あまり話しているところを見たことがない。
「ふふふふ」
私はおじいさん達に答えずに休憩室へ向かった。お風呂からあがったばかりだから、ゆきさんのところへ行かなくては。折角、綺麗にしたんだからね。
ゆきさんとお話しすると、心の中が優しい色をしたハチミツで満たされるような心持ちがする。ゆきさんのことを思い出すだけで、甘い気分で胸がいっぱいになる。
「おいおい」
おじいさん達が追いかけてくる。私はかまわず、シルバーカーを押して急いだ。
ヘルパーさんや看護師さんが最近冷たくなった。逆におじいさん達がかまってくるようになった。
今も、ヘルパーさんが白い目で私を見て、通り過ぎた。
構わない。いいのだ。
私には、ゆきさんがいる。ゆきさんがいれば、いいのだ。
事務所前の掲示板に句が貼り出されていた。
「灼熱の 輝きを切る 夏の蝶」
大森ハルと書いてある。私の名前ね。私が作ったのかしら。私は掲示板の前にいる薄水色の制服の子に尋ねた。
「ハルさんの句ですよ。最初は『黒い蝶』だったんですけど、先生が『蝶』は春の季語だから、『夏の蝶』に直したんです」
「こんな句を作ったかしらね」
「ハルさんが作った句ですよ」
いつの間に作ったのかしら。
「ハルさんは感性が若いですよね」
「そうかしら。でも、季語を直されるのは一番ダメでしょう?」
「みんな、この句に感心していましたよ」
褒められたので気分が良かった。でも、本当に私がつくったのかしら? 全く心当たりがなかった。
私は、今日も、ゆきさんの後をついて、歩く。
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