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初見で驚いた。ベア子さんが美しくて驚いた。美しさの次元が違う。美しさの種類が違う。あとで心も綺麗だとわかったけど、姿が極めて美しい。神様が力を入れて創っている。顔の造作も美しい。目が切れ長で涼しく、端正な顔立ちをしている。どちらかというと淡白な容貌だから、華はないようだけれど、目が離せない。体型も綺麗で、モデル以上の存在感だ。さらに、その清潔感に襟を正した。なんだか清らかな人がきた、と思った。清楚といえばいいのだろうか。男性に対して用いる表現ではないとは思う。
「森野ベア子って、いいます~。よろしく~」
ベア子というような容姿ではない。源氏名を変えた方が宜しいと思った。話し方も変えた方がいいだろう。まるで似合わない。まず、語尾を伸ばさない方がいい。もっと知的に見える。本当は賢いのだろうから賢そうにした方がいい。本当に賢い人は、莫迦みたいなふりをしていることが多い。どういうわけなのか私は莫迦だからわからない。
このM市は四国で一番発展しているのではないかと思われる地方都市だ。その繁華街にこの街で唯一のゲイバーがある。
話は数日前にさかのぼる。私たち地味な三人は、私のアパートの部屋で、ネットを見て遊んでいた。
私が以前、演劇部の先輩にショットバーへ連れて行ってもらった話をしつつネットを見ていると、このM市に男装バーが一軒あることが分かった。面白そうだから、その男装バーへ行こう、という話が持ち上がったのが、二転三転して、ゲイバーに行くことに決まってしまった。そしてゲイバーに来てみたのはいいけれど、友達二人と私は委縮してソファの上で小さくなっていた。
店内はきらびやかで賑やかで、奇抜で派手なファッションのゲイの人たちが沢山いた。私たちは全く飲めないので、ソフトドリンクをちびちびやっていた。ショットバーでもノンアルコールのカクテルを頼んでいた私だ。
私たちにも二人くらい若いゲイの人がついて盛り上げてくれようとしたけど、上手くいかず、どうもそっとしておいてくれるようで、離れて行った。
「あら~若い子達~」
声をかけられたのでそっちを見た。白いワイシャツに黒いパンツ、黒い革靴という至って普通の服装で、脚が長くて抜群にスタイルがいい男子がやって来た。普通の服装が物凄くスタイリッシュに見える。化粧はしていないようだ。髪も染めていない。真っ黒い髪をしている。
「ひょっとして、大学生~?」
一瞬、ホストとか黒服とかいう人なのかと思った。言葉のイントネーションの感じから言うと、やはりゲイなのだろう。そのスーツ姿の人が私の横に座った。
周りの空気まで澄んだような気がした。まとっている空気が違う。この人、かすみを食べて生きていそうだ。うんことか、しないんじゃないか。姿勢も美しい。完璧だ。美術品みたいな人間だ。美しい顔を盗み見ると、渋いしわが目の下によっている。年齢は結構いっているのかもしれない。肌はとても綺麗、体臭もない、香水なども使っていないようだ。
その人がベア子さんだ。ベア子さんは、聞き上手だった。私たちは自然に饒舌になり、大学であったことや最近腹が立ったことなど、いっぱい話した。
私たちはクラスでも地味な方だ。特に私は、学校にカバンを忘れたことがあったのだが、クラスメートが、
「ここに誰かいたっけ?」
と言ったくらい存在感がなかった。
新入生が集まったときも友達がいなくて、地味そうな二人組に頑張って声をかけて、その後はその二人に一所懸命くっついている。(本当の『一所懸命』だ。そのポジションを、命をかけて守っている)クラスメートはみんなそのとき、私のことを大学院生だと思っていたらしい。
入学式のときも母と校門で写真を撮ろうとして、大学生にカメラを頼むと、
「卒業式ですか?」
と、言われた。私はかなり落ち着いていて、悪く言うと老けて見られる。
友達だって、誰か仲のいい子と二人きりで仲良くしていたかった。誰にも気づいてもらえないので(あぶれてしまったのだ)、二人組に無理やり割り込んで、必死に三人グループをしている。そうしないと友達もできない。私はグズでもある。素早く賢く上手く立ち回れない。
地味な私たちを優しくもてなしてくれるベア子さんは懐が深かった。年齢を重ねているからかもしれない。地味な私たちを弾けさせることができるなんて、神業だと感動した。私はすっかりベア子さんのファンになった。
「びっくりしたね」
とか、
「楽しかったね」
とか、月並みなことを言いながら私たちは自分のアパートに帰った。楽しかったのだ。よかった。そんなに楽しいことなんて、普段、私たちにはなかった。「つまらない」がデフォルトの日常だ。つまらない人間の日常はつまらない。珍しく今日は楽しかった。これは貴重なことだ。でも、また行こうとは誰も言わなかった。私たちには冒険すぎた。ドキドキが容量に満ちたので、あと十年は退屈でも大丈夫だ。
その後、コロナが蔓延した。私はある日、ゴミを捨てようとしてアパートのゴミ捨て場に行った。そうしたら掃き溜めに鶴というか、ぱっと目を引く男子がゴミを捨てようとしていた。立ち姿がいい。
「あら~、ワカちゃん」
名前を呼ばれてびっくりした。振り返った男子はベア子さんだった。
「同じアパートだったんですか」
また、びっくりした。
「そうだったのね、でも、あたし、もうここを出るの」
コロナが蔓延して、お店の経営も苦しくなり、家賃が払えなくなったそうだ。お店は休業みたいになっているらしい。
「うちに来ませんか?」
とっさにそう言っていて、自分でも驚いた。
私は今、2Kの部屋に住んでいる。今度大学二年生になる。入学時に自分の現状を打破したいと思い、当の演劇部に三か月だけいた。そこで知り合った同じ大学の同い年の女の子とルームシェアをしていた。でも、その子とケンカして、一部屋空いている。
「いいの?」
そのように説明すると、ベア子さんは、私の部屋に転がり込んで来た。
同居人だった子は、同じ大学の夜学に通っていた。でも演劇ばかりに打ち込んで、学校の勉強はおろそかだった。バイトと演劇で家にいないことが多く、受信料の支払いや昼間の訪問者(宗教の勧誘などの人)に対応するのは私だった。夜は電気もテレビも点けっ放しで眠ってしまう。セキセイインコを飼っていて、世話も十分にせず不潔にしていた。部屋も汚部屋だ。お風呂も垢まみれのままにしてあった。だから、お風呂を磨くのも私だ。
家賃、光熱水費が折半だったから、そういった諸々が元になってケンカした。その子は出て行った。
私が演劇部を辞めたのも、だらしない部員たちが気になったからだ。その部はたくさん借金していた。(誰が払うんだろう?)部員はみんな、卒業する気がないようだった。みんな演劇ばかりして、学校に通わず、活動していることで満足していた。充実しているような気分になっている。なんのために大学に来たのだろうと思った。
そもそも馬が合わないはずの人たちだった。自分を変えるために入部したけど、こんな風にはなりたくないと思った。最初はみんなに頑張って合わせていたけど、それはやめた。このままだと私も卒業できなくなりそうだった。最初は友達が欲しくて必死だったから、いろんなことを見失っていた。
ところで、ベア子さんへの自分の気持ちは分析ができない。ただ、私は愚直で、人への警戒心は薄かった。ときどき、自分でも驚くほど大胆なことをするときがある。大学の勉強も大切だけど、自分に厚みを出す経験も欲しかった。
ベア子さんは、本名を、
「柳瀬 蒼(ヤナセ ソウ)」
と、いうそうだ。年齢は今年四十だとか。
「実家は神社をしてるの」
と、いった。宮司をしなくてはならない立場だったらしい。でも、自分の性癖と両立は難しく、家を出て来たのだった。
透明感の正体が分かった気がした。ベア子さんは神に仕える人だったのだ。
私の実家には、女の子が同居人だということにした。
実家に女の子の名前を、
「アオイちゃんていうんだよ」
と、伝えた。
ベア子さんは、エコな人だった。
お風呂に入るときは、いつも私のあとでいいという。そうしてお風呂に入ると洗濯物をさっとお風呂の湯で手洗いして、いつのまにかベランダの隅に遠慮がちに干してある。男物を干してあることで防犯にいいかもしれない。お風呂もついでのように、出るときに毎回磨いてくれる。
普段着は2パターンしか持ってなくて、毎日服を洗って換える。どちらも袖が長い綿のTシャツとスウェットのパンツだ。
掃除もしてくれる。それも掃除機を使わず、箒と雑巾で何もかもピカピカにしてくれる。神社仕込みなのだろうか。洗剤は使わず、どうも重曹とかクエン酸とかを使っているようだ。
ベア子さんは料理が下手だ。肉野菜炒めなどを作ってくれるのだけど、人参に火が通っていなかったり、肉が焦げていたり、油でべちゃべちゃだったり美味しくはない。でも、毎日私のご飯を作ってくれる。気持ちが嬉しかった。作らなくていいとは言えなかった。
ベア子さんの得意料理はたぶんオムライスなのだろう。固めの卵でチキンライスを包んだ懐かしい感じのオムライスだ。昔の純喫茶で出て来るようなヤツだ。
私はこのオムライスが大好きだ。
私には変な夢があるのだが、純喫茶で大学生たちと政治や文学や芸術の話をしたいと思っていた。生まれて来る時代を間違えたと思った。
私はスマホが苦手だ。高校の時、SNSで失敗したことから、現在はガラケーを持っている。パソコンはある。けど、卒論を書くためのパソコンなので普段は眠っている。ときどき調べものに使うくらいだ。
ベア子さんは、そんな私の欲求を満たしてくれた。政治の話も、文学の話も、芸術の話もできる人だった。オムライスを食べながら、台所のテーブルに向かい合って、夜じゅうベア子さんと話すのに夢中になった。そのまま夜明けを迎えることも多々あった。話す相手が美しいというのも嬉しい。気分よく話し続けられた。夜更かしに拍車がかかったのもベア子さんが美しいからだ。ベア子さんが相手だと永遠に話していたい。
ベア子さんと手を見せ合ったことがある。ベア子さんの指は長くて綺麗だった。手の平も大きい。ちなみにベア子さんの手は意外と毛深い。なぜか少し安心した。
手を見せ合ったのは、薬指と人差し指の長さの比率で、男っぽいか、女っぽいか分かるからだ。ベア子さんも私も人差し指より薬指が長かった。つまり、ベア子さんも私も男っぽいのだ。男性ホルモンが強い。やっぱり毛深いし、男性ホルモンは強いだろう。私はひとり心の内で納得した。
「え~、男っぽいの~」
ベア子さんは嫌がった。でも、料理が苦手なんて、やっぱり男っぽいのではないだろうか。ベア子さん、女子は恋愛対象にならないのだろうか。
ベア子さんは、運送会社のバイトを始めた。私に家賃や光熱水費の半分を払ってくれるようになった。
ベア子さんが家にいないことが多くなった。私は寂しかった。帰ったら、ベア子さんに迎えて欲しい。
そうしているうちにベア子さんに好きな人ができてしまった。同じ運送会社の男性らしい。
「彼のお母さんみたいな存在になったの~」
と、嬉しそうに報告してくれた。相手の男性はノンケのようだ。ベア子さんは、ますます家を空けるようになった。
「お母さんみたいな存在になって、どうするのよ」
訳のわからない怒りにさいなまれた。相手の男性にやきもちだった。同時にベア子さんの恋が成就して欲しいような複雑な気分もした。とにかく私はベア子さんに構って欲しい。どうすればいいのだろう。
コロナの影響で大学の授業がリモートになってしまった。私は一人で部屋にいることがさらに多くなった。
そんなある日、母親がアパートに来た。ベア子さんは留守だった。
「どうしたの。お母さん」
母親の口が重かった。
「お父さんが……」
と、だけ言う。
「どうしたの?」
母親はぽつぽつ話し始めた。
父親が、倒れたらしい。今は、ICUに入っている。
父親は公務員だった。仕事中に、
「心臓が痛い」
と、いい出して、倒れた。多分、近日中に亡くなるのではないかということだった。母親は、良くても植物状態になるのではないかと付け足した。医者の見解すらも悲観的らしい。
「え?」
私は言葉がつなげなかった。
「悪いけど。大学は辞めて、就職してもらえないかしら」
と、母親は言いにくそうに言った。
「うん。仕方ないよね」
私は大学を中退することになった。
母親が帰ったあと、ベア子さんに相談した。いつもみたいに台所のテーブルに向かい合った。
「そうなの。心配ね」
ベア子さんは余計なことは言わなかった。
「ベア子さん」
「はい」
「私、地元に帰りたくないの」
「そう」
「このM市で就職しようと思うの」
「それは、いいんじゃないの」
「ベア子さん……」
「ん?」
「ベア子さんはどうする?」
「ワカちゃんがこのままここにいるなら、いてもいいのかしらね」
「うん」
私は切り出せなくて、躊躇した。
「ベア子さん。私と籍を入れませんか」
「え?」
「男女なら、籍は入れられるでしょう?」
「そ、そうだけど」
「形だけでいいので」
「それで、ワカちゃんはいいの?」
「二人で協力して、生きていきたい」
「う~ん」
「私、ベア子さんが好きなの」
ついに言ってしまった。
ベア子さんは、綺麗な目を見開いて、私を見ていた。見つめていた。
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