12、その鳥は飛び去ってしまったのだから。

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12、その鳥は飛び去ってしまったのだから。

* 年が明けて、その広告企画について、ぼくたちは前向きな打ち合わせを何度か行った。けれど、結局、実現することはなかった。クライアントの工場が緊急封鎖されて、レトルトカレーの新発売は無期限延期になってしまったのだ。彼が話していたように、武漢の新型ウィルスはおそろしいスピードで世界に拡散、猛威をふるっていた。感染者がいないのは、南極大陸だけだった。かつてない危機に直面して、人類は怯えきっていた。メタファーでも、フィクションでもなかった。 リビングルームでひとり仕事しながらニュース番組を観ていると、イタリアの惨状が報じられていた。インタヴューを受けているベニス在住の日本人女性は、どことなく彼女に似ていた。そっくりに思えた。まさかね、とぼくは自分の想像を打ち消した。 それにしても、どうして、彼女はマスクもしないで街を歩き回っているのだろうか? なんとか生き延びてほしい、とぼくは祈った。涙がにじんだ。たとえ、ウィルスに感染したとしても、軽症で済みますようにと。   * ところで、ウィリアム・フォークナーについて、ぼくはずっと勘違いをしていた。すべての遺稿を燃やしてくれ、とフォークナーは死にぎわに親しい友人に頼んだと思っていた。それは、フランツ・カフカだよ、と彼が教えてくれた。どちらにしても、人類はひとつの物語を生きている。気付くのが、遅すぎただろうか?ぼくは火を付けたい気分だった。せっかく目覚めたというのに、その鳥は飛び去ってしまったのだから。 (了)
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