花帆。

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

花帆。

 目の前のベッドには、六歳になった妹の花帆が横たわっている。人工呼吸器に繋がれて、苦しそうに顔を歪めていた。お父さんとお母さんは、お医者さんに呼ばれて席を外した。午後四時半。カーテンを閉め切られた部屋の中には蛍光灯の明かりだけがある。  助かって。それだけを、思う。  お願いだから、もう一度笑顔を見せて。あの、眩しく弾けるような表情をまた浮かべられるようになって。  赤ちゃんだった花帆。初めて顔を見た時、無意識の様に僕は指を差し出した。小さな小さな手で、ぎゅっと握ってくれたっけ。歯も眉毛も無かってけど、とっても可愛いと僕は思った。そして、お兄ちゃんとして必ず守り続けると心に決めた。  寝返りを打ったのを最初に目撃したのも僕だ。お父さんはお皿を洗っていて、お母さんはベランダで洗濯物を干していた。花帆が寝返りを打った、と叫ぶとお皿と洗濯物を持ったまま二人ともとんで来た。うつ伏せになった花帆を見て、息が出来るのか心配になり僕はしっかりと抱き上げた。腕の中で花帆は無邪気に声を上げた。  三歳になると、土日は僕の通い始めた小学校へ連れて行った。グラウンドを一緒に走った。ブランコに乗せて背中を押した。鉄棒をやりたいとせがむので、大分重くなっていたけど一生懸命抱き上げ掴まらせてあげた。帰り道、クラスメイトとそのお母さんに会った時、いいお兄ちゃんね、妹さんが可愛くて仕方ないんだ、と言われた。その通りだったので、はい、と心の底から返事をした。花帆は人見知りをして、僕の影に隠れていた。  本当なら、先月から僕の通う小学校へ花帆も入学し、今頃は通学をしていたはずだ。廊下を歩く一年生の中に、しかし花帆の姿は無く、その度に僕は唇を噛んだ。  半年前、花帆は急に熱を出して一向に下がらなくなった。かかりつけのお医者さんへ行くと、解熱剤を処方された。薬が効いている間は多少マシになるけど、それでもすぐにぶり返した。ただ事でない、と両親は大きな病院へ連れて行った。すぐに精密検査が行われた。そしてこの病院を紹介され、以来ずっと入院している。ただ、日に日に花帆は弱っていった。最近では、喋ることはおろか自力の呼吸もままならず、人工呼吸器をつけたままだ。  拳を握り締める。こんなの平等じゃない。花帆だけが苦しい思いをするなんて不公平だ。花帆も同じように、普通の生活を送る権利がある。どうしてうちの妹だけが病気になった。何で当たり前の人生を送れない。そして、今。 その命すら、終わろうとしているんだ。  九歳の僕に両親は詳しく説明はせず、きっと大丈夫、とだけ口にした。だけど二人の青ざめた顔や苦しそうな花帆の様子、そしてお医者さんの表情を見て僕は察した。花帆は、助からない。  嫌だ、と強く念じる。大事な妹を失いたくない。どうか元気を取り戻して、また一緒に遊ぼうよ。もっとたくさん、楽しいことを一緒にしようよ。並んで小学校へ通学しよう。僕が花帆の手を引いてあげる。宿題でわからないところがあれば教えるよ。逆上がりが出来なかったらたくさん練習をしよう。だから花帆、まだいかないで。もっと傍にいて。僕が守るから。僕がずっと守ってあげるから。  しかし無情にも、花帆の呼吸が徐々に落ち着いて来た。良くなっているわけじゃない。終わりが近付いている。祈りだけで病気は治らない。でも僕には祈ることしか出来ない。だから強く、心の底から強く祈った。  もし、僕の寿命を分け与えられるのなら、喜んで差し出す。治療でどうにもならないのなら、それならば。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!