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焦燥
美奈子はビロードのソファに深々と腰掛けた老人を見つめた。
深い皺の間から僅かに覗く眼はあくまで黒く、そこから感情の機微を読み取る事は困難だった。
美奈子の眼前にいるこの老人は九十九平蔵(つくもへいぞう)という名で、この地区一帯を取り仕切る顔役だった。
顔役、と言えば聞こえは良いが、要は裏家業の元締めであり、右寄りの活動と合わせてこの地区では知らぬ者のいない人物だと言う。
被差別部落出身者の歴史を追う美奈子が今日の取材の為に紹介された人物だ。
美奈子は焦っていた。坂下の連絡待ちという歯痒い今の状況に。
一瞬、現地へと足を運ぶ事を考えた美奈子だが、安アパートの下に来た迎えの車を見てそれを思いとどまざるを得なかったからだ。
黒塗りのその車には『愛国義真会』の文字が踊っており、今日の取材対象者がどんな人物かを悟らせるには充分過ぎる程の説得力を持っていた。
そんな人物との約束を土壇場で反故にすればどうなるかは火を見るより明らかだったからだ。
美奈子は焦る気持ちを抑え、取材の支度を整えるとその車に乗り込み、この広大な邸宅に来た、という訳だ。
九十九老人は枯れ木のような細い腕を伸ばすと、目の前に置かれた瀬戸焼の湯のみを手に取り、音をたてて啜った。
老人の背後には『愛国誠意精神是国宝也』(愛国心、誠意こそが国の宝という意味)と力強く書かれた掛け軸が飾ってあり、その前には大小二振りの日本刀が鎮座している。
傍らには短く髪を刈り込んだ屈強そうな男が不動の姿勢で控えていて、眉間に皺を寄せて何も無い虚空を睨みつけていた。
並みの女性ならその光景だけで萎縮してしまうだろう。
だが美奈子は違った。
黒木太一と共に幾つもの修羅場を潜ってきた美奈子は男性すら及ばない程の胆力を備えていた。
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