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文久2年8月2日夕刻。
大坂。
井上佐一郎は、よもや土佐の勤王党が自分を狙っているとは思ってもいなかった。
元来、お人よしな性分でもあった。
実を言えば、それが土佐の人柄でもある。
「同郷のよしみじゃき。おごるち飲もうぜよ」
以蔵のめったと使わない土佐弁。
上に立つ者ほどお国言葉は使わないものだ。
しかし、以蔵は決して上に立つ者ではない。
彼は足軽出身である。
身分に苦しんだ経験を今もなお、忘れてはいない。
だからこそ、いつかは上に立ってやるとの野望を抱いた時から彼は、標準語をなるべく話すようにしている。
しかし今は自分を下に見せ、とにかく疑われないようにしなければならない。
お国言葉によって、親しみもわくという事である。
「頭の良いお方ですよ、まったく‥‥」
道を歩いていた佐一郎に、以蔵は偶然を装って話しかけた。
物陰にはそれを隠れ見る2人。
「あたしは知恵の回る人ってのが、昔からどうも好きになれないんだけど」
「大丈夫ですよ。あなたも十分知恵の回る人ですから」
遼香と森田である。
「あたしのどこが!?」
「損得の辺りとか」
「や、それは、岡田さんがあまりにも馬鹿だから。」
すぱっと言い切った遼香に、森田はぼそっと言葉を返す。
「あんた、岡田さんに恩があるんじゃなかったっけ?」
「だから損しないように、そっと手をさしのべてやってんじゃん」
不機嫌そうに、ぼそぼそっと喋る遼香。
「で、他の奴らはいつ来るわけ」
その『他の奴ら』こそが、遼香がここにいる原因である。
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