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その時渡された貝を、私は返す機会がないまま今を迎えてしまっている。この会話の日を最後に、私は彼と会う日常を失った。私はその日、他人に売られ、江戸を離れてしまったから。
もう彼に会えないという意識がようやく生まれた次の日、私はいくら泣いても涙が渇れることがないということを知った。
きっと今日も、彼はあの川原へ来てくれていた。明日も、明後日も、その次の日も、またその次の日も。日が空に昇る限り、彼はきっと来てくれていた。
それを確信していたから、余計に悲しみを誘った。
そして私は、京の花の蕾となった。
芸妓の身となり、私が京へ来て十年以上が経った今でも、私は身を売る立場となることはなかった。この私が今まで不思議にも使えなくなったものが幸いしたのだ。このような娘を金を払ってもらって客に買わせることなどできやしなかったのだろう。
それでも私が未だここを追い出されることがなかったのは、箏と三味があったからだ。
それだけは、誰にも負けなかった。
長倉に与えてもらった海。それを全ての音にのせて鳴らすことは、男にも女にも自然涙を溢れさせた。どれほどに酔っていても、どれほどに騒いでいても、私が音を鳴らせばその音だけが部屋に響く。遊女や風流のある客は感涙し、その他の男も遊女の美しい涙につられ鼻をすすった。
潮騒が私の頭の中でいつまでも響いている。
長倉。あなたがくれた、この音が。
未だ見たことがない、あなたの海の音が。
私の中で。
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