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寺の山道の脇道に、古びた甘味処をかまえている婆さんがおったそうな。店の中には今時ではもう珍しいものとなってしまったダルマストーブが据えてあり、その上にこれはまた、よく磨きあげられた巨きな真鍮のやかんが、ゆっくりと穏やかな白い湯気を立てている。そのすぐ横に置いてある籐椅子の上では、母猫が子猫の顔を舐めてやっている…慈愛深い光景であることだ。
小春日和の夕暮れも間近く、静謐でゆるやかな時が流れてゆく…と思っていたら不意にその静寂は破られた。古びた格子戸が硝子の軋む音をさせて開かれ、中年の女が後ろに中学生くらいかと見受けられる子供を従え、低い声でぶつぶつ小言を呟きながら店の中に入って来た。
母親「だから私があんなに言ったじゃないの!…あんたはちっとも親の言うことを聞きゃしないんだから!」
婆さんは調理場の方から注文をとるためにどこか剽げた身振りで、ひょこひょこと歩いて来た。
婆「おや、今日は坊ちゃんも一緒かい?久しぶりだねぇ」
婆さんはそう言いながら二人の前に番茶を置いた。
婆「何にするかね?」
母親は老婆に軽く会釈をしてから品書きを見る。その間も綺麗にマニキュアを塗った爪の先で神経質に卓を叩き続けている。
母親「私、今ちょっと食欲なくって…そうね、でも、小鉢の梅うどんを頂くわ。みつる、あんたは?」
充「………………」
婆「坊ちゃんの好物は何だったけねぇ」
充も品書きを懸命に見ながら好みのものを探している。
母親「まったく!あんたは何をやらせても愚図ではっきりしない子だわね!早いところ決めたらどうなの?もうあんまり時間がないのよ?」
充「…僕、おでん、それからえーと…お婆ちゃん、前に来てた頃にはお赤飯ってありましたよね?」
婆「はいはい、今でもあるよ。そうそう、小っちゃい頃に来てた時も、おでんと赤飯が好きだったっけねぇ。ちょいと待っといでよ」
婆は破顔しながら調理場へと引き下がる。
母親は半ば呆れた顔になり
「お赤飯だなんて…あんたね、ちゃんと志望した高校に合格してからにしたらどうなの?まあ、なんて暢気なんでしょう…母さんがこんなに心配してるっていうのに…!」
その母親の口うるさい言葉を全く無視しながら、少年はいかにも懐かしそうに店の中を見廻し、すぐ横に近寄ってきた猫の頭やら喉やらをなでやっている。
(続く)
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