【第十三章】九尾の妖狐、信太の森に帰る語

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「……無い。私には解らぬ感情(もの)だ」 夕星はそっと濡れた頬を指先で拭い、笑った。 「ふふっ。鬼も仏も額突(ぬかず)くと言う大陰陽師様にも分からぬことがありますのね」 「…………」 夕星の言う通りだ。 恐らく、晴明がそれらの感情を理解できることはこれから先も無いのだろう。 そのことを悲観したことは無いが、何故か今は少しはがゆく感じた。 「……君は?」 「え?」 夕星が意表を突かれたように驚き、晴明を見上げる。 晴明自身、自らの紡いだ言葉に驚いていた。 何故彼女に問い返すような真似をしてしまったのだろう。 しかし、一度口にした言葉は取り消すことはできない。 晴明は息をついた。 「君はあるのか?」 夕星は何か思案するように、視線を遠くに馳せた。 風に遊ばれてかさかさと枯れ草が鳴る。 寄り添った男と露草の骸も徐々に闇に飲まれて行くようだった。 「……殺めてしまいたいほどに……他者(ひと)を憎んだことはありますわ」 夕星はぽつりと告げた。 痛々しいほど悲しそうに笑う。 まるで言葉にすることで過去の自分を戒めているように。 「……愛することは……」 夕星はゆっくりと瞬き、天を仰いだ。 高く澄んだ夜空には星が一つ力強く瞬いている。 半分が欠けた月は離れた場所でその様子を見守っていた。 「これから知りたい……知っていきたいと思います」 風が二人の間を通り抜けていく。 夕星につられるようにして、晴明も夜空を見上げた。 彼女はあの西天に輝く星そのものであった。 一見儚く心もとないが、その光は凛として生命力に満ちている。 晴明はふと、夕星の眼にこの世界はどう映っているのだろうかと思った。 己の内に生じた波紋に戸惑う。 誰かのことを知りたいと感じたのは、初めてのことであった。    
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