1「私は在る」という感覚

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質「私が身体ではないと知ることが何の役に立つというのでしょうか?」   マ「あなたが身体ではないと言うことでさえ、全くの真実とは言えない。ある意味では、あなたはあらゆる身体、ハート、マインドのすべて、またそれ以上なのだ。『私は在る』という感覚のなかに深く入っていきなさい。そうすればあなたは見いだすだろう。忘れ去ってしまったものを見つけ出すにはどうするだろう? 思い起こすまでマインドにとどめておくのだ。『私は在る』という存在の感覚が最初に現れる。それがどこからやってくるのか、自分に尋ねなさい。あるいは、それをただ静かに見守りなさい。『私は在る』という感覚のなかにマインドが動じることなく定まったとき、表現不可能な、しかし体験可能なひとつの境地へとあなたは入っていく。何度も何度も試みることだ。そうすれば、『私は在る』という感覚は、つねにあなたとともにある。あなたが身体、感情、思考、観念、所有物などをそれに付随させてきただけだ。こういった自己同一化は、あらゆる誤解を招く。そのため、あなたは本当の自分ではないものを自分自身と見誤ってきたのだ」   質「では、私とはいったい何でしょうか?」   マ「あなたが何ではないか、ということを知ればそれでいい。あなたが何なのかを知る必要はない。なぜなら知識とは既知なるもの、知覚されるもの、あるいは観念としてしか表せないため、自己知識といったものはありえないからだ。それゆえ、あなたが何なのかということは、完全な否定においてしか表せない。あなたに言えることは、『私はこれではなく、あれでもない』ということだけだ。意図をもって、『これこそ私だ』と言うことはできない。それはまったく意味をなさない。あれやこれ、と指し示すことができるものは、あなたではありえない。何かほかのものだとさえ言えない。あなたは知覚や想像を越えた何かだ。それにもかかわらず、あなたなしでは想像も知覚もありえない。あなたはハートの感じること、マインドの考えること、身体の為すことを観察する。そのこと自体が、あなたはあなたが観察するものではないと言うことを示唆しているのだ。あなたなしで知覚や体験が可能だろうか? 体験とは必ず何かに帰属するものだ。誰かが、これは私の体験だと言明するのだ。体験者なくして体験はありえない。体験者が体験にその実在性を与えるのだ。あなたが体験できないもの、それに何の価値があるというのだろう?」
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