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さっきまで吹いていた風が、ぴたっと止みました。蒸し暑い、じめっとした空気が闇に沈んだ公園を包み込んでいます。
チリン・チリン、どこからともなく聞こえてくる鈴の音。
ニャーゴ・ニャーゴ、一匹の黒猫が悲しく、憂いに沈んだ声で鳴いています。まるで、闇に向って何かを語りかけているかのように。
あれは、まだ吹く風が少し冷たく感じられるころでした。
ピーポーピーポー、静けさを引き裂くような、救急車の音。公園のすぐ隣りの平井という家の前に止まりました。その家のお婆さんが、脳溢血で倒れたのです。
実はね、毎晩、深夜一時ごろになると、暗黒の闇の中から、男の唸り声が聞こえてくるんですよ。「うぅ・・、はぁ~、うぅ~。返せ・・、返せ・・、オレのバックをどこへやった」
電気を点けると、しんと静まりかえった部屋には、誰もいません。でもね、確かにそこに残る、何者かの気配。重たい空気が漂っています。
やがて、お婆さんは、夜もろくに眠ることが出来なくなり、病に倒れてしまったのです。
あれは、その現象が起きる半年ほど前のことでした。いつ頃からか、ここ西堀第三公園に、一人の路上生活者が住み着くようになったのです。彼は、薄汚れた黒い大きなバック一つで、公園にやって来ました。バックの中には、ほんの少しの身の回りの品と、彼の妻の写真と位牌が入っていました。
彼の周りには、いつも数匹のノラ猫がたむろしています。彼にとっては、猫だけが友人だったんですね。
特に、彼は黒い大きな雌猫を愛し、ナオミと呼び、鈴を付けて可愛がったのです。
実は、それは、彼の妻の名前であり、鈴は妻の大切にしていたものだったのです。
彼は、以前小さな町工場を経営していました。そして、妻と一人の子供がいたのです。
彼は一生懸命に働きました。妻も手伝い、時には、ふと気が付くと東の空が白み始めることもありました。
それでも、原料の値上げや、親工場からの値下げ要求。海外からの安い製品の流入で、けっして生活は楽ではありませんでした。
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