主よ、人の望みの喜びよ

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 いつもの月曜。  バレンタイン商戦も終わり通常の陳列に戻ったが、早すぎる春服のディスプレイにはまだ現実味がなく、また実際一歩店から出れば、まだ春の兆しは微塵も感じられない風に吹かれてコートの前を合わせる、そんな季節。  開店後間もない午前十時半過ぎの紳士服売り場は客足もまばらで、時折客を見掛けても、月曜が休みな職種と思われる彼らはワイシャツやネクタイが並ぶ慎治の持ち場はスルーして、この階から繋がる本屋や有名大型雑貨店の入る別館の方へと流れてゆく。  それでも訪れた数人の客が触れて行った陳列を整えるべく、慎治は売り場を見渡しながらさして乱れてもいないネクタイの列に手を伸ばしていた。  少し離れた所から、客の姿が視界に入った。仕事途中なのか、スーツ姿のその男は、何かを探してはいる様子だが、何を探しているのか陳列棚には視線を向けず、店員一人一人を目で追って何かを確かめているように見える。  そして慎治のその推察は間違いではなかった。遠目で慎治と目が合った彼は、見つけたとばかりに一度大きく目を見開き、それから意を決したように肩に掛けていた黒い設計図入れを掛け直して慎治に近付いてきた。 .
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