第二十六章 玉匣

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私と多賀氏が〝賭け〟の約束を交わしたのは三日前。南条男爵邸で開催された傷痍軍人救恤を目的とする慈善舞踏会での事である。 かつて幼気(いたいけ)な熱情に駆られて華冑界の令嬢たちが結んだ小さな同盟(アリアンス)は、今や押しも押されもせぬ帝都に冠たる一大婦人団体。 絶えず私の後見を必要とした我が〝生徒〟たちは、昔日の心許なさが嘘の様な見事な差配ぶりで亜米利加仕込みの奇術やバレエ、慈善競売といった百花繚乱の演し物で招待客らを魅了してみせたのだった。 広壮なコロニアル様式の洋館に満ちる流麗な舞曲を圧して真珠の破片のように弾ける華やかな歓声は、今宵の舞踏会の成功を物語る無上の証である。 けれど、晴れやかだった筈の私の心は今や灰色の倦怠(アンニュイ)に蝕まれている。 どうして幸福は胡蝶のような軽やかさで儚く移ろうてしまうのかしら? もしも船底の富士壺の様な堅固さで心を鎧ってくれるなら、憂わしき(ヴィ)はもっと堪え得るものになるでしょうに。 カドリーユ。ワルツ。フォックス・トロット。タンゴ。 愉しき百種(ももくさ)の舞踏に興じる暇も与えず、私の前に列をなすのは渾身の訴えに及ぶ請願人たち。 或いは〝是非とも我が社の事業に御出資給りたく云々〟 或いは〝鮎原社長に知遇を得たく云々〟 また或いは〝義弟の後添えに何卒しかるべき堂上家の姫君をご紹介いただきたく云々〟 彼らが語るのは何れも同情に余りある身の上話ばかりだけれど、こんな調子では一体誰の為の慈善舞踏会に足を運んだのか分からなくなってしまうわね。 金刺繍の吉祥文様を鏤めた仏蘭西絹の黒い支那服を纏い、巻き髪に赤珊瑚の薔薇の(かんざし)という装いで舞踏会に華を添えるつもりだったのだけれど、その試みは(あだ)に終わってしまったわ。
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