第二十六章 玉匣

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横浜港に颯爽と降り立った制服凛々しきヒットラー・ユーゲントの青年らが高らかな歓呼に迎えられた葉月の中頃。 阪神間のさる名望家の訃報と消え失せた彼の遺産を巡る騒動とを、私は避暑地のホテルで伝え聞いた。 白樺の林、楡の葉叢のあわいを駆け抜け、私の長い髪を揺らす悪戯者の風の精にうらみ言を一つ。 忠実なserviceも過ぎれば疎ましいだけだわ。 紺碧の空よりも目映い琺瑯質の夏雲の峰。卓子の上には檸檬水(レモネード)のグラスが二つ。 連日庭球(テニス)を楽しむ若き外交官夫人の言に曰く─ 〝肝心な箱の中身は空っぽだったのですって。とても綺麗な大きな宝箱らしいのですけれど。遺産目録には確かに明記してあったというのに、遺されたのは箱だけ。妙な話ですわね〟 奇妙な風説(ゴシップ)の俎上に載せられた銀行家、牧岡慎之助の名。 彼の遺した虚ろな玉匣(ぎょっこう)の存在。 私は、その何れも。 世にも美しい巨大な白木の(はこ)。 其処に納められたものの正体も。 可惜夜(あたらよ)という箱書の意味することさえも。  走馬灯の様に廻りはじめる、記憶。 物憂い昼下がりのterrasseを渡る風の音に誘われて、鮮やかに。 記憶が、蘇りゆく。
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