第二十六章 玉匣

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からん。 鈴生(すずな)りの星屑が奏でるような玲瓏たる鳴音を立てて賽筒から転がり出でた象牙の賽子(さい)が二つ、黒檀の盤面を打つ。 螺鈿金蒔絵で虹色の洛中図を描き出した豊太閤拝領の折畳式南蛮双六盤に犇めくのは、紅玉(ルビー)と水晶の駒。 出目は六六。これを以て敵方の紅駒三つが一どきに着陣を果たし、自陣三段目五歩前で勝利を窺う白駒一つを残して私の敗北が決したのであった。 「よし!どんなもんだい綾乃さん! いやあ、やっぱり今日の僕ぁついてるよ!」 小気味の良い音と共に紅玉の駒を進めた隻眼の大陸浪人─多賀輝次郎氏はロココ様式のソファから飛び上がって両腕を天高く突き上げ、中高の貌を悪童のように莞爾(にっかり)とさせる。 並外れた才知と強運で〝無敗〟の声望を恣にしながら、勝負に勝つ事は何時でも素直に嬉しくて堪らぬらしい。 亜細亜(アジア)狭しと駆け巡る壮士にして悪名高き賭博師(上海では英国商人をチェスで散々に打ち負かし、朝鮮では花札で総督府高官を破産させかけたそうね) たる彼と私とが競いあったのは、古式の双六。 ルールは年季の違う私との力量の差を鑑みて〝(つみかえ)〟 若き日の禅林寺宰相との三番勝負にも負けなかった私でも、賽子の目を如意に任せる事は叶わない。 勝敗を殆ど天運に委ねる(つみかえ)は今日の私達にうってつけの種目であった。 「恐ろしい強運ね、多賀さん。私の負けよ。本当に不思議だわ。どうして貴方にだけは運命の女神たちも従順なのかしら。 ・・・さあ、聞かせて頂戴? 約束通り貴方のお願いを聞いてあげるわ。どんなことでも」 そして、この賭けの敗者に科され罰は〝ひとつだけ相手の願いを聞き届ける〟こと。 私は文字通り欣喜雀躍(きんきじゃくやく)の態の多賀氏に微笑みかけ、その望むところを尋ねる。 この天衣無縫の大陸浪人は、私に一体何を求めるのかしら? 私は今般の勝負を持ち掛けられた瞬間から、彼の願いに興をそそられていた。 縁故や利得を欲する者の跪拝を勝ち得るばかりの〝夜会の女王(わたし)〟に、彼はきっと清新な感情を以て対峙してくれる筈と希望を託して。 「大袈裟だなあ、綾乃さん。今日の僕が飛び抜けて幸運だっただけさ。 ・・・よし。綾乃さん。じゃあ、遠慮なく頼ませて貰うぜ? 綾乃さん、どうか〝人形〟になって欲しいんだ。頼む、一日だけで良いんだ」 再びソファに腰を下ろし、居ずまいを正した多賀氏は、がばりと勢いよく頭を垂れ、不可解極まる願いを口にした。 愛すべき真率な心ばえに免じて、どんな途方もなく不遜な夢にも付き合ってあげる積もりだったけれど、こんな請願は流石に私の想像の埒外にあったわ。 ※禅林寺宰相:南北朝時代の公家、千種忠顕のこと。結城親光、名和長年、楠木正成らと共に〝三木一草〟と呼ばれる建武の新政の功労者。武芸に長け、各地の戦場に赴いた。
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