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第六章

 入江には、今回の個展も大成功に見えた。招待客は次々に彼の元へ挨拶に来たし、それぞれに称賛の言葉を述べていった。だが、予想外だったのは、帰宅後にかかってきた北村からの電話だった。
「ああ、今日はどうもありがとうございました」
 入江はキッチンテーブルの上に置かれている電話の受話器を耳に当てて、テーブルに身体を預けた。
『いや、こちらこそありがとう』
 返ってくる北村の声は、なぜか固い。
「どうか、したんですか」
 入江が思い切って聞いてみると、電話越しに北村は溜息をついた。
『君に言おうか迷っていたんだが、隠しても仕方がない』
 北村はそこで言葉を切る。しばらく沈黙が流れた。入江は何を言われるのだろうか、と思いながらも、不思議に焦りはなかった。
『絵が、半分売れ残った』
 しん、と耳の奥に静寂が流れ込んでくる。入江はそこで初めて混乱した。
「絵が半分売れ残った……?」
 今回の個展には元々多くの絵を出展していない。その半分が売れ残ったというと、売れた数もたかが知れているということだ。いままで、こんなことは経験がなかった。
「なぜです。どういうことですか」
 早口に聞けば、北村は言い淀むように再び溜息をつく。
『君の絵は変わってしまった』

2

 入江にとって、思いもよらない言葉だった。そんなはずがない。いつも通り自分は絵を描いたはずだ。
『君の持ち味だった色彩の鮮やかさがなくなってしまったように思う。こう言ってはなんだが、ありきたりだ。君は自分でそう思わないかね?』
 そう聞かれて、入江は言葉に詰まった。まさか、自分には色が認識できない、などと言えるわけがない。そんな状態で絵を描いたなどと。
『非常に残念だよ。……これは私の邪推だが、誰かに絵を任せたりしていないかい?』
 今度こそ入江は黙った。高瀬に色の調整を任せていたことが、裏目に出た。そこに高瀬の「意思」が加わり、入江自身の色ではなくなってしまっていた。そのことに、いままで気付かなかった。入江は手のひらを握り締めた。
「……そんなことは、ありません。あれは、俺の、絵です」
 本当のことは言えなかった。北村は「そうかい」と一言言うと、打って変わって明るい声を出した。
『いや、一時的なものだと信じているよ』
 入江は何も答えられない。そんな彼の反応に、北村は丁寧に今回の個展の礼を述べると、電話を切ってしまった。入江は受話器を持ったままの右手を力なく下した。
「先生」
 そこへ、思いもよらない声がかけられた。入江の身体が驚きで揺れる。振り返ると、そこには高瀬が立っていた。
「どうして君が……。学校は……?」
「午後の授業が休講になって……、それで……」
 高瀬はさっきまでの電話のやり取りを聞いていた。初めは誰と何を話しているのかわからなかったが、入江の言葉で直感した。「絵が半分売れ残った」、そして、「あれは、俺の、絵です」と言う入江の背中を見ながら、高瀬の心は実体のない罪悪感に蝕まれていった。個展の絵が売れ残ったことが、まずわかった。そのあとに、自分が入江の制作の手伝いをしたことがマズかったのだと、高瀬は悟った。

3

「いや、何でもない。たまにはこういうこともある」
 入江が必死に笑顔を浮かべようとするのを痛々しく見て、高瀬は俯いた。
「俺の、せいですね」
「そうじゃない」
 入江は俯く高瀬の前まで来て、彼の両腕を掴んだ。
「そうじゃない。君のおかげで絵が完成できたんだ。そうじゃない」
 それでも、高瀬は顔を上げない。
「……俺は、先生の邪魔をしているんですね」
「違う」
 入江がすぐさま否定するのを、高瀬はどこか遠い出来事のように聞いた。俯いた目から涙が零れ落ちて、ポタリ、と床に落ちた。それを見て、入江は彼を抱き締めた。できるだけ強く。彼が自分の元からいなくなってしまわないように。高瀬の涙が入江のスーツに染みを作る。しばらくそうしていたが、唐突に高瀬が入江の身体を押し返した。その力は思ったよりも強く、入江は動揺する。
「ごめんなさい……。本当に、ごめ……」
 涙で言葉を切ってしまう高瀬を見て、入江の心はズキン、と痛んだ。
「君が謝ることなんて一つもない。だから、……これからも俺のそばに、いてくれないか」
入江はかろうじて高瀬の肩に手を置いて、説得するように言う。高瀬はまだ俯いている。彼が何を考えているのか、入江にはわからない。ただ、自分のそばにいてくれと、縋るように思う。
「……ごめんなさい」
高瀬は強引に入江の腕を突き放して、部屋から飛び出した。入江はそこに立ったまま動けない。玄関の方でバタバタと音がするのを、茫然と聞く。さっきまで腕の中にあった熱はもう消えて、冷たくなっている。
ふと、忘れていた瞬きをした瞬間、入江の視界は完全に色を失った。高瀬を失うと同時に彼はすべての色を失くした。最後の希望であった、「赤」でさえ。
入江はその場に崩れ落ちた。もう、希望すら持てない。大事な人も、人生の期待も、全部一気に失くなってしまった。膝を付いた床の冷たさが入江に現実を迫った。高瀬がいれば視界から完全に色が消えても、生きていけると思っていた。けれど、自分の行動で彼を傷つけて、そして失った。
入江は目を閉じる。途端に視界は明るさを失い、真っ暗になる。暗闇が自分を歓迎しているように思えた。もう、望むものはなにもない。失うものもなにもない。

4

第七章

 高瀬がいなくなって、入江の生活は劇的に変化した。まず、きちんと食事を取らなくなった。あんなにものが入っていた冷蔵庫はからっぽになってしまった。再びデリバリーの配達員がインターホンを鳴らす日々が始まった。たまにカレーのデリバリーを頼んで、その中に入っているニンジンに気付かず食べてしまい、眉を顰めることもあった。高瀬だけではなく色彩も消えてしまった彼の世界では、目の前のものが何であるのか、見た目だけでは判断に苦しむ場面があることを知った。
 入江は、いままでそのことに気付かなかった。それは、まだ色彩が僅かでも見えているためだと思っていた。けれども、高瀬がそうと気付かせないまま、自分にそっと教えてくれていたからでもあった。そういった場面に直面するたび、入江の心は刃物で切り付けられたように痛んだ。
 入り浸っていたアトリエに置かれたキャンバスには布が掛けられて、パレットに残っていた絵の具はからからに乾いていた。入江は絵を描くことさえも放棄してしまった。何も色がないモノクロの世界はとても単調で、そして孤独だった。

6

 制作を止めてしまったことで、皮肉にも生活は規則的になった。朝起きて、顔を洗う。そして着替えて、コーヒーを飲む。食器棚に置かれた対のマグカップを見るたびに、入江の心は揺れた。部屋の中には、高瀬の存在を証明するものが数えきれないくらいあった。けれども、入江はそれを処分できなかった。失うものなんてもうないはずだと思っていたのに、案外そうでもなかった。その事実は彼の精神を更に疲弊させた。
 眠っている間に、夢をみる。その夢には大体高瀬がいて、彼は無邪気に笑った。一緒に食事をしたり、触れ合ったり、キスをする夢をみた。極彩色の夢だった。高瀬の茶色い柔らかい髪も、着ているTシャツの色も、日ごと変えていたジーンズの色も、入江は正確に判別できた。ただ、ふっ、と目覚めると、途端にその色彩は消え去り、さっきまで触れていた熱が陽炎だったことを彼に突き付けた。
 入江は、自分が生きているんだか死んでいるんだか、わからないくらいひっそりと呼吸をしていた。身体の器官だけはやけに生にこだわることがおかしかった。どうして眠っている間に死んでしまわないのだろう、と入江には不思議だった。絶望が、彼の背中に寄り添っていた。

7

 しとしとと、雨が降っていた。不規則に窓を叩いては流れ落ちて行く水滴を見ながら、入江はぼんやりとソファに座っていた。テーブルにはアシュトレイと、その上には煙草の吸殻。慣れない煙草を吸うと、自分で身体を害している気分がして、彼の気持ちは少し凪いだ。
 そこへ、突然電話の着信音が鳴り響いた。入江は電話がある方へ顔を向けさえしない。ただ、ぼんやりと窓を眺める。それでも止まない機械音に、入江はやっと腰を上げた。この部屋の電話番号を知っている人なんて知れている。恐らくあの人だろう、と、彼は見当を付けて受話器を取る。
『もしもし? 入江君かね?』
 入江の思った通り、電話の相手は北村だった。入江は、恐らく北村だろうということと、彼が最近音信不通の自分を心配してかけてきてくれたのだろう、というところまで想像していた。もうずっと一人で、そろそろ孤独にも慣れてきたと思ったのに、心配されるということに対して悪い気はしないところが入江を自嘲させた。
「……ご無沙汰しています」
 入江がそう返すと、北村は電話口で深く息を吸い込んで、一口に何か言おうとしたようだったが、そのあとに言葉は続かなかった。
『……元気かい?』
 北村は、それだけ言うのが精一杯の様子だった。入江は苦笑した。
「ええ、なんとか生きています」
『本当に、どうにか息をしているような声をするね』
 北村は困ったような溜息をついた。北村は二回目の入江の個展を開いたことを後悔していた。一度目が好評だったため、それが続けば入江の気持ちも落ち着くだろう、という短絡的な考えで開催したものだった。だが、入江に何が起こったのか、彼の絵は変わってしまっていた。それでもそれを自分の絵だと言い張る入江に、北村は言い様のない感情を抱いていた。名付けるとするならば、憐憫、そんなものに似ている。

8

 けれども北村は、入江をもう一度画壇のトップへ立たせたいと切に思っていた。自分のためではない。画廊の売り上げなぞどうでもいい。あれだけの絵を描く才能を持った男を、目の前で易々とダメにしてしまうには勿体なさすぎる。いままで一度はトップまで持ち上げられ、その後手のひらを返したように画壇から引き下ろされる才能を沢山見てきた。入江の才能まで同じようにしてしまうわけにはいかない、この男の才能は「本物」だ、北村はそう感じていた。
『入江君、いま、うちの画廊で若手の展示会をしているんだ』
 北村が話題を変える。わざと大したことのないような口調で、できるだけ入江を刺激してしまわないように、北村は腐心した。
『来てみないかね』
「……いや、俺は」
『来てくれるだろう?』
 入江は沈黙した。北村の心配は痛い程わかった。けれどもいまはどこにも出かけたくない。この部屋に閉じこもっていたい。高瀬の気配がまだ残っているこの部屋に。
「……すみません」
 入江がそう言い終わらないうちに、北村が言葉を被せてきた。
『とてもいい展示だ。私に会いに来てくれるだけでもいい』
 入江は黙って受話器を握りしめた。
『待っているよ。待っている。君を』
 そこで、電話は切れた。入江は受話器を電話機に戻すと、俯いた。雨脚が強くなったのか、さっきよりも大きな音で雨が降っている。パタパタと窓ガラスを叩く水滴の音と、カチカチと鳴る時計の針の音。この部屋に充満するものは、温度のないものばかりだった。
 入江は小さな溜息をつくと、寝室へ向かった。出かけるにはコートを持って来なければいけない。

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 カラン、といつもの音がして、画廊の扉が自然に開いた。その前に立っていた入江は驚いて一歩後ずさる。中からドアを引いたのは北村だった。老いた彼は、ひどく安心したような顔をして入江を迎えた。
 入江はコートを脱いで、腕に掛けた。画廊の中は空調が効いていて少し肌寒い。雨が降っているため、室温を下げているのだろう。湿気は絵を痛める。
「うれしいよ」
 何が、とは言わず、くしゃりと笑う北村を見て、入江は形容しがたい気持ちになった。自分が生きている意味はまだあるのだろうか、と申し訳ないような気になる。
「さあ、奥を見ていってくれないか」
 北村はそう言うと、入江の背中を押して画廊の奥へ向かった。
「どうだろう。君の目にはどう映るだろうか」
 北村は一歩前を歩きつつ、入江を振り返った。
「有望な画家はいそうかい?」
 努めて明るく振る舞う北村を見ながら、入江の顔にもいつの間にか小さな笑みが浮かんでいた。絵に囲まれていることが、単純に楽しい。その色が見えなくても、表現を見て取るだけで心が上向いてくる。すべての色彩が灰色のキャンバスを順繰りに見ながら、入江は久しぶりに「生きている」ことを実感した。やっぱり自分には「絵」が必要なのだ、「絵」に生かされてきたのだ、そう思えた。例え、自分にはもうそれが描けないとしても。
 順番に絵の前に立って観賞を続けていた入江は、一つの絵画の前で立ち止まった。この絵だけ何か雰囲気が違う、彼にはそう思えた。
「珍しいだろう、モノクロだけで表現をする子がいるとは思わなかった」
 北村が入江の隣に並んで立つ。彼の言葉で、この絵はモノクロで描かれていることがわかった。だからどこか異質な感じを与えたのか、と入江は納得する。

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