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第1章 東京大空襲

井上翔太は、昭和20年3月10日の東京大空襲で母と妹を失った。
幼くして、厳しい人生を背負った翔太は、どう生きていくの
でしょうか。

焼け野原となった東京。

闇市や、孤児たちに優しい手を差しのべたパンパンのお姉さんたち
(駐留米兵相手)のことなども描いてみたいと思います。

 1945年3月10日は陸軍記念日にあたり、米軍の大規模
な空襲があるのではないかという噂が、東京の一部には
流れていた。
  
 
 街には、子供たちの姿が、いつもより多く見うけられた。
   

 地方に学童疎開していた国民学校初等科(現在の小学校)
の6年生が、学校の卒業式に出席するため、戻ってきてい
たのだ。


 1944(昭和19)年6月30日、政府は大規模な本土空襲の
危険が迫ったことを受け、都市部の国民学校初等科3年
から6年の児童の集団疎開促進を決めた。

 

2

 東京の場合は、この年の8月から約23万人の児
童が地方の旅館や寺などへ疎開したと云われる。

 長野県が一番多く、福島県、群馬県、静岡県な
どが続いている。

 児童の中には、ホームシックになって疎開先を
逃げ出す子が何人もいたり、病気になる子もいて、
引率教師はだいぶ苦労されたようだ。

(参照: 朝日新聞「学童疎開の苦労伝える
     引率教師の遺品、当時の記録見つかる」)

 疎開は子供の命を守ることが目的だったが、同年
8月に、沖縄の児童らを乗せた疎開船「対馬丸」が
鹿児島沖で米潜水艦に撃沈され、1400人以上が死
亡する惨禍が起こった。
        
 地方の農村などに学童疎開してた間に、家族が空襲
の犠牲になったことで、戦災孤児が多く生まれた。
   

   

 

3

 1945(昭和20)年8月10日午前0時8分、サイパン
基地から飛来した米軍のB29爆撃機が深川区(現江東区)
木場に焼夷弾を降らした。

 次いで浅草区(現台東区)、本所区(墨田区)、日本橋区
(現中央区)、城東区(現江東区)、芝区(現港区)などに
B29爆撃機から「M69油脂焼夷弾」が投下され、東京35
区の三分の一以上の41平方キロメートルが焼失した。

 焼夷弾は、辺り一面に猛火を引き起し、人々は火の
粉を被りながら必死に逃げまどった。
   
 全身に大やけどを負い、体形も男性か女性か区別が
つかず亡くなった人も多かった。
     
死者約10万人、焼失家屋26万戸に及び、沖縄戦、
広島・長崎への原爆投下と並ぶ惨事となった。

9日から強風が吹いていたことも被害を大きくした。
 

4

 上野周辺の建物では、松坂屋デパートや浅草松屋
デパートぐらいしか残存しなかった。
    
上野の山から東京湾が見渡せた。
   
 井上翔太は、1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で
母親と妹を失なった。  

 9歳だった。

 父親の昭雄は、満州に陸軍兵士として赴き、母の淑子は
5歳の悦子を抱え、浅草の家で銃後を守っていた。
  
 国民学校3年生だった翔太だけが、東京から西北へ約
240キロ離れた長野県中央からやや西に位置する松本に
学童疎開していた。
   
   

5

  母親の淑子からは、一週間に一度、宿舎兼教室と
して使っているお寺に手紙が届いた。
   
 「元気にしていますか。

  母は、いつもあなたのことを考えています。
    
  松本は寒いと思いますので風邪をひかない様にね。
  
  お友達とも仲良くね」

 と、愛情をこめた言葉が並んでいた。
    
  翔太は、母の温もりを感じた。
      
  そして、浅草の家で暮らす淑子と妹の悦子の姿を
思い浮かべるのだった。

 

6

  母の便りは、3月10日以後は届かなかった。

 5月初旬のある日、翔太は授業が終わった時に
担任の芝田幸子から
「ちょっと残っていてね」と云われた。

 何の話だろうと思いながら、教室(寺)の窓か
ら庭を眺めていると芝田が入ってきた。

 若い芝田は、慈愛の眼差しで
「お母さんと妹さんが3月10日に、東京大空襲
で亡くなられたの」と告げた。
   
翔太はすぐに身体が膠着してしまい、動くこ
とが出来なかった。

 目からほとばしる涙を、色あせた袖でぬぐった。  
  
 戦争中のこととて、着る服も乏しく、淑子がど
こからか工面して送ってくれた服だった。
  
 芝田は、翔太のこわばった身体を解くように、
優しく抱きしめた。 

「大丈夫よ、翔ちゃんなら、きっと乗り越えられる」
 
  誰もいない寺の本堂で、翔太はひとり嗚咽した。

 気持ちが少し落ち着いたところで、ご本尊阿弥陀
如来坐像に手を合わせ、淑子と悦子の冥福を祈った。

7

ソ連軍の満州・朝鮮侵攻  1945年8月9日

  終戦まぎわの1945年8月9日、ソ連軍が突如連合国
軍側に参戦して、満州に侵攻した。

 関東軍は勇猛でならした軍隊であったが、主力部隊
の大方が苦戦の南方戦線に回されたため弱体化していた。

 兵力は70万人を擁していたが、満蒙開拓団を始めと
する壮年男子15万人を動員した結果だった。
   
最新の戦備を持つソ連軍に反撃するのは無理だった
と云われる。
   
 ソ連軍の満州侵攻により、日本人開拓民の悲惨な逃避
行が 始まった。
   
ソ連軍兵士は、略奪と暴行を繰り返すなど非道の限り
をつくしたと云われる。
   
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                
  
 

9

  
  戦争は悲惨なものだ。

  逃避行を続ける人々を飢餓と酷寒と疫病が襲った。
 年寄りや幼い子供は、力尽きて死亡した。
   
  80余あった開拓団の中で、集団自決などで全滅した
  開拓団は10に上り、死者は約7万人余と言われている。
   
  また逃避行中に子供たちと生き別れになる残留孤児問題
 が発生することにもなった。
    

  

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