第1話 ある春の日、その一音より

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第1話 ある春の日、その一音より

 その音は講堂によく響いていた。  奏でられている二音のうなりを俺は追うことは出来なかったけれど。  それでも、彼が調えていく音に、一瞬にして惹かれてしまったのだ。  生まれ育った場所が違う俺にしてみれば、この時期に桜を見るのは二度目になる大学二年になったばかりのその日。俺は彼の作り出す音と出会った。講堂のステージに鎮座しているグランドピアノの音を丁寧に調えていく彼の音を、昼寝をしようと講堂に忍び込んでいた俺は聴いてしまったのだ。――ああ、好きだなぁ、この音。元々音そのものを好きになる傾向がある俺は、素直に彼の調える音に好意を持った。そして、呆けたようにその音に釘付けになっていた俺に、仕事を終えたらしい彼は呆れたような、そして少し咎めるような表情で、こちらに向き合って声を投げる。彼はカッチリとしたスーツを着こなし、シンプルなシルバーフレームの眼鏡をかけているからか、知的な印象をふんわりと纏っていた。 「ダメじゃないか。明日まで講堂は使用禁止の筈だけど」  その声は講堂の中に響いて、入口近くで立ち竦む俺の元へと届く。低すぎず、高すぎない、落ち着いた声。耳に心地よいその声は「きみ、学生だろう?」と更に続けられる。 「スミマセン! 掲示見てなくって……サボりとかでは無いんで、見逃して下さいよー」  続けられた声に、意識は現実に引き戻されて、俺は慌ててそう答える。彼は俺を見て苦笑し、腕時計を一瞥すると、「わかった。そろそろ仕上がり確認に教授も来るから、早く出た方が良い」と声を投げてくれる。その声に背中を蹴りだされるように、彼に小さくコクリと頭を下げて、コソコソと講堂から出ようとする。最後に彼の姿を横目で見てみれば、ひらりと手を振る姿が見えて、何だかとても、綺麗に見えた。 「――やっば、」  ドアを開けた瞬間に目が合うのはピアノ科の教授。名前は確か、芳野教授か。 「二年の結城クンだったよね。今日は講堂使えないよ?」  にこり、と笑みを浮かべながら首を傾げる好々爺に俺の口元は引きつって。「掲示見てなかったデス」と正直に答える。「まぁ、この講堂、殆ど使わないから静かに何かしたいときには良いっていうのはわかるんだけどね」そう笑ってる芳野教授は俺を見逃すつもりらしい。「でも、サボリは良くないよ」との言葉には「サボリでは無いです。そもそも、本格的に授業始まるのはまだじゃないですか」と素早く返す。「ならばよろしい」と笑みを深める。そうして無罪放免。「明後日にはまだ君の根城に戻るだろうし、我慢は大切だよ」と面白がる声色を背中に受けて、会釈ひとつ返せばふと思いついて芳野教授に問いかける。 「講堂のピアノの調律って、調律科の人がやってるんですか?」  何故いきなりその質問なのか、と教授は一瞬首を傾げるもドアを見遣り合点がいったように笑う。 「基本的には、調律科の学生が学内のピアノの調律をしているんだけどね。今日の調律師は卒業生。いい音を作るだろう? 南海君は」  ミナミさん。心の中でだけその名前を呟き、教授の問いには頷いて。そして教授は「南海君を待たせるのも悪いから」と、いそいそ扉を開けて講堂の中へと入っていった。自らの重さで閉まる扉を見つめ、もう一度今度は声に出して「ミナミさん」と呟いてみる。そして次に足を向けるのはレッスン室が立ち並ぶ区画。多分居るだろうな、と当たりをつけてドアにの小窓から覗けば、レッスン室の中には二人分の人影。そのうちの片方のシルエットが目的の人物である事を確認してから二人を邪魔しないようにそっとレッスン室の中に入る。グランドピアノとアップライトピアノが一台ずつおかれているこの小部屋で、二人はピアノ同士のセッションをしていた。アップライトを陣取る伸びっ放しの癖毛に度の強い、オジサンのような眼鏡を掛け、くたくたのカーディガンを羽織る男子学生は俺の顔を一瞥してからピアノの方に向き直り、グランドピアノの前に陣取るショートカットにパーカーを羽織るボーイッシュな女子学生は背後の俺に気付きもしない。二人が奏でるのはチック・コリアのスペイン。アランフェス協奏曲をイントロに使ったこの曲ならとっつきやすくセッション出来るのではないかという双方の話し合いの結果が見えるような選曲だ。男子学生の方は半年以上一緒に学外でジャズもやるようなバンドを組んでるだけあってソロもお手の物というような流れるようなソロを披露し、アイコンタクトを送り合い、女子学生のソロへと移る。彼女だってうちのバンドを見に来てくれるだけあってジャズは好きだろうし、少し音が迷ってもリカバリが早く、彼女らしい楽しげなソロを弾き切ってテーマに戻る。上り下りする音階に思わず目を細めながら、俺はそのテーマが終わるのを待つ。二人で息を合わせてラストをゆったりと弾き切ると二人の視線は俺へと集まる。 「結城君来てたんだ」 「結城、どうしたの?」  二人の声が合わさって俺へと向けられ、俺は思わず笑ってしまう。本当にこの二人は仲がいい。 「折角のセッション、邪魔して悪い。ミケちゃん、片桐。今日何時に終わるかと思ってさ」  そう答えれば、グランドピアノの前に居るミケちゃんは首を傾げ、アップライトピアノを背にして座り直した片桐は笑い、首を傾げている彼女に「今日、結城の誕生日だからだ、ケーキ食うって約束してるんだよ」と説明をする。 「そうなんだ、結城君おめでとー!」納得して祝福の言葉を贈ってくれるミケちゃんに「ありがとう」と返していれば、片桐からは「時間空いてたから三上さんとセッションしてたんだけど、結城の予定に合わせれるよ」との返答。「俺はもう一コマだけオリエンテーションあるから、その後だなーそれならもう夕飯時……六時頃でどうだ?」と返せば、片桐は「了解」と返事をする。 「そうだ、三上さんも一緒に来る? 予定なければだけど」と片桐はミケちゃんに話を振って、俺には「結城も良いだろ?」と同意を求める。俺の答えは勿論イエス。「片桐の作る飯、美味いからケーキも期待できるよ」とミケちゃんの回答を待つ。「じゃぁお邪魔しようかな」とミケちゃんも乗って来て、「それじゃぁ夕飯時にン俺家集合で。あ、ミケちゃん。前に話してたアルバム、その時渡すよ」と声を掛け、二人の了解の返答を聞いてから「邪魔してごめんな」と二人の元を後にする。時計を見ればそろそろ次のコマが始まる時間。俺は小走りで指定されている教室へと向かった。
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