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第1章

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第1章




   プロローグ


 午前四時過ぎ。十二月の渋谷の町はまだ静かだ。もっとも、渋谷駅周辺を中心に渦となって今もと言うべきか既にと言うべきか、こうこうとネオンが輝きを放っている。その何百ものネオンの光が宮益坂を下り、外苑の果てまでの闇を溶かし、星影すらほとんど目にすることができない都会の夜。ぷっくりと浮かぶ上弦の月がなければ、単色の塗り絵と見まがうばかりの面白みのない夜空だとも言える。
 若者の聖地である渋谷も、この時刻ではさすがに人影はまばらだ。昼間は人ごみと騒音で満ちたこの町が、今はまるで別の町のように静かで閑散として見える。喧騒に満ちた町もまた人のように眠る時刻があるのだ。一日の内、このときだけは渋谷の町が故郷の山梨の片田舎の姿と似通って見える。
 すらりとした体躯に厚手のジャケットとチノパンで身を包んだ新野(しんの)達也(たつや)はそんな感慨にふけりながら、冷たい風を全身に浴びて緑ヶ丘学園大学の研究棟の屋上から夜の渋谷の町を見下ろしていた。徹夜あけの鈍く火照った体に寒風が心地いい。
 達也は経済学部の助教だ。去年、東大で博士号を取得し、教授に引っ張られて緑ヶ丘学園大学にやって来て、今は研究に没頭している。毎晩徹夜になるほどの労力に比べて、その金銭的な対価は実に微々たるものだったが、達也は満足していた。
 日々の研究は実に興味深かったし、その研究がいつか社会の役に立つ日が来ると思うと、それだけで疲れが吹き飛んだ。
 いつかはあそこにたどり着けるかもしれない……。
 そう達也が視線を向けたのは達也の勤める緑ヶ丘学園大学に国道を挟んでそびえる国連大学だ。達也の専攻は開発経済学だ。主に発展途上国の経済発展に寄与するための経済学の分野になる。達也にとってその最先端を行く国連大学で働くことは念願と言って良かった。
 ポケットからホットの缶コーヒーを取り出し物思いにふけるうちに時が速足で流れて行った。
 ふと、背後で屋上に続く鉄の扉が開く音がして、達也は振り向いた。
 パジャマにコートを羽織った美しい若い女が立っていた。
「こんばんは」
 女性は微笑みかけて来た。
「こんばんは。今日も眠れなかったのかい?」
 達也が心配そうに問うと、彼女は微かにかぶりを振った。長い艶やかな黒髪が風をはらんではらはらと揺れる。この女性は緑ヶ丘学園大学の敷地内にある付属病院の入院患者だった。

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