5 『デビルマン』に想う

1/1
7人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ

5 『デビルマン』に想う

(1) 『デビルマン』が問うたもの  『デビルマン』は、娯楽作品として大成功を収めた。少年達は私も含めて、悪魔と明の戦いに興奮し、悪魔シレーヌの美しさに心騒がせ、悪魔軍団の襲来に恐怖した。しかしこの作品は、文明論的な主題提示の的確さと真摯さゆえに、時代を映す名作のひとつにもなった。これを、『ハレンチ学園』などの作品への批判に対する罪滅ぼしと評価するか、十倍返しの抗議を果たせたと見るかは、立場によって分かれるかもしれない。しかしいずれにせよ、この名作の輝き自体は現在においても色あせない。むしろ現実の世界においても、この『文明』という大局的、総合的、そして中立的な視点から人類の未来を考えることが、より可能かつ必要となってきたのではないだろうか?  幸いにも、人類は作品の題材となったような危機を回避しつつあるようにみえる。しかし、状況は予断を許さない。今、人類文明は持続可能性の問題に直面している。それは、①物的資源、②人的資源、③経済・社会活動、④政策の持続可能性という課題からなる。 (2) 文明の歴史  問題の本質を知るには、文明の歴史を知る必要がある。まず、科学・技術は経済・社会活動を拡大(富裕化・広域化)・省力化し、それと同時に複雑化・加速化する。そして、そのような経済・社会を健全に保つため、制度・政策も巨大化と同時に分権化し、高度化する。肉体労働は頭脳労働に移行し、様々な新しい課題も発生するようになるので、制度・政策も、必要とあれば大勢が動くが、それに当たっては衆知を生かし、多様な利害を調整して社会を健全に保てるように、発達してきた。  人類は農耕時代、体外の物質から道具や器械を作り出して生態系を操作し、文明を獲得した。この段階では、農業生産や生産物の防衛・分配のために集権的な国家制度が成立したが、小規模ないし不完全ながら民主政が行われた地域もあり、後にはより発達した議会制度や地方自治などの、分権的な制度も形成された。また経済活動の発展は、商工業者の台頭と商業制度の発達をもたらした。  工業時代には、動力機関が生み出す体外エネルギーを使って、物資を大量かつ迅速に生産・輸送し、近代文明を世界的に拡大した。この段階では主権国家が増加と共に系列化される一方、普通選挙や植民地独立、企業組織と労働法制の発展、人種差別の撤廃や女性の社会参加という形で、社会組織の巨大化と分権化が同時に進行した。  情報時代には、電子頭脳網(コンピュータネットワーク)を中心として体外情報処理を行い、工業段階の(パワー)速度(スピード)制御(コントロール)を加えて、地球という環境的な限界への到達に適応した。具体的には、情報通信技術によって経済・社会活動を効率化し、世界の人々を結びつけ、資源消費や環境破壊を抑えて、全地球的な協働を可能にした。また情報を、『組織体(システム)の活動を制御する、物質またはエネルギーの配列(パターン)』という広い意味で捉えれば、体内情報伝達物質(ホルモン)剤や遺伝子診断を用いた産児制御や医療によって、人口爆発や健康水準低下を抑えた。この段階では全球統治(グローバルガバナンス)の思想が出現する反面、政治的民主化・経済的自由化・地方分権などの分権化がさらに進展し、非営利民間団体が政府や企業と並ぶ活動主体として承認された。 (3)文明の課題  現在、人類は全体としてみれば、情報段階から次の文明段階に移行する過程にあると思われる。情報技術は文明活動を効率化して、地球という空間的限界への到達による破局を延期した。しかし、我々はまだその限界の中で、時間的な持続を見通せるまでには至っていない。国連の総合政策であるSDGs(エスディージーズ)(持続可能な開発目標)においても、持続可能性(サステナビリティー)という言葉が中心的な鍵言葉(キーワード)となっている。  持続可能性(サステナビリティー)という課題は、全ての政策分野において現れつつある。また、ある技術水準において政策が利害調整を極めたら、新たな技術を開発しない限り、さらなる問題解決には限界がある。 新たな技術と政策の、両方が求められている。  第一の課題は、技術的政策における〝物的資源の持続可能性〟である。物的資源は技術利用の必要条件なので、この言葉により問題を表現した。人工物はなお自然環境や生態系・生体との永続的な共存性に改善の余地がある。特に、材料・エネルギー資源の多くは枯渇性の埋蔵資源であるし、その副産物や廃棄物は環境破壊を生じている。食糧の中では水産資源、地域によっては土壌や水資源も枯渇が心配されている。  物的資源は科学・技術の客体なので、ここでは何より、さらなる技術革新に待つところが大きいが、技術の適正な開発・普及を促す技術的政策も重要である。  第二は、人的資源政策における〝人的資源の持続可能性〟である。人工物の発達に伴い、自然物、特に人間の身体についても、機械のような改善が難しいことが意識されるようになった。三百年の天下泰平を享受(きょうじゅ)した江戸時代末期の人骨は、日本史上で最も貧弱だったという調査結果がある。私も五十代の虚弱体質者であり、生活や医療の向上で生きられたことに感謝しているが、そうした人々の割合が増え続けると、非常時に助けきれなくなる心配がある。こうした危険はすでに1976年、立花隆の『文明の逆説』で語られている。また、人々が文明の恩恵に安住すると、上位階層は腐敗、下位階層は衆愚化、中間層はその両方あるいは無責任に陥りがちになる、という恐れもある。経済・社会活動の複雑加速化に、教育が追いついていけなくなることも懸念(けねん)される。  人間には技術の客体という側面と政策の主体という側面があるが、人的資源は前者に注目した概念である。故に、ここでは自分らしい生活の質(QOL)や自ら生きる力、主権者意識など、主体性を確保する政策も前提としたうえで、それらを実現するためにも、人々の肉体的・精神的・社会的健康や知識・教養を維持・向上させる技術が求められる。  第三は、経済・社会政策における〝経済・社会活動の持続可能性〟である。どんなに豊かな富があっても、それらを必要とし、活用できる人々に再分配と再投資、いわば食用米と種籾(たねもみ)の配分を適切に行い、両立させていかないと、経済・社会活動が続かない。しかし、経済・社会活動が巨大化・複雑化・加速化すると、従来の制度・政策では、急速に広がる格差や予測し難い経済変動に応じて、富を公正・効率的に再分配・再投資するのが難しくなっていく。  ここでは、制度・政策の主体としての我々自身が、社会工学的な技術を活用しつつも、いかに政策により経済・社会を自己制御してゆけるかが問われる。  第四は、行政管理政策における〝政策の持続可能性〟である。現代の政策は高度化し、国際化や全球統治(グローバルガバナンス)のような巨大化と共に、市民参画や官業開放、地方分権のような分権化も求められている。  歳月の経過に伴う貧困・富裕の連鎖によって個人の能力差以上に格差が広がれば、低所得層は能力を発揮できず、上位階層は過重な負担と責任を負うことになる。さらに、技術革新による産業や仕事の変化が加わると、社会の運営に必要な分業化・階層化などの組織技術までもが、かえって自らのタコツボ化ないしサイロ化を招き、要らない仕事を作ったり(マッチポンプ)、職務権限を乱用したり(ミイラとりがミイラ)することにつながり、人材の活用を妨げてしまう恐れがある。  人々の活動に支援や規制を行う制度・政策は、裏を返せば人的資源の活用であるといえる。特に、人工知能のような技術が発達するほど、人間の仕事は単純な作業や事務から社会的な意味の判断にも関わる仕事へ移行(シフト)していくので、人々の社会・政治的成熟度(リテラシー)を向上させたうえで、そうした業務を委ねてゆかねばならない。 (4) 新たな技術  では、以上のような課題を解決できる新技術とは、どのようなものか。文明の発展段階、すなわち〝時代〟を画する革新的な技術とは、人々の価値観も含めた経済・社会活動の変化を通じて制度・政策にまで変化をもたらし、文明に飛躍的発展をもたらす技術といえよう。    そうした技術の特徴とは、既存の技術を基礎としつつも、全く新しい分野を開拓する新規性と、その成果を再び多くの在来技術に還元し得る多能性である。  農業時代において農地の耕作・灌漑や家畜の飼育・使役に用いられた道具は、狩猟・採集時代のものから発達してきた。工業時代を開いた動力機関は、農業段階において金属製の農具や武器の製作に使われた冶金技術の発達により、製造が可能となった。情報時代を担う電算組織も、工業段階において動力や情報の伝達に使われた、電気技術を基礎とする。それらの新技術は在来技術に、より優れた狩猟・採集用の道具や農業機械、自動制御という成果を還元した。情報技術に遺伝子操作のような生物工学的技法も含めば、情報技術は品種改良などの農業技術をも基礎として、それらに遺伝子組換え作物などの成果を還元したともいえる。  加えて次の段階としては、道具・火・言語に始まる、ある意味において〝(体内環境含む)環境の外〟における物質・動力・情報媒体の使用を、〝親近化〟ないし〝体内化〟させる〝環境(生体)親和技術〟、さらには〝惑星外化〟させる〝宇宙工学技術〟が、同様の画期的な技術として考えられる。  そして、そのような次世代技術の条件を満たす新たな技術は、今まさに発展しつつある。資源消費や環境破壊を低減できる、新材料・エネルギー。従来は人間にしかできなかった作業や判断さらには技術開発、政策立案の代行・支援を可能とする、知能(スマート)ロボットやIoTとビッグデータ処理。経済・社会活動の生産性を増進する、生物工学(バイオテクノロジー)生体工学(バイオニクス)。人的資源の経年・経代的な能力低下を人道的な手段で防ぎ補える、先進医療・教育技術。 acf6b948-39ca-4c8f-932a-d646fb256603   それらの次世代技術は、①人工知能(AI)を中心として、②生物など自然物と、機械など人工物の垣根を取り除き、いわば()いとこ取りで両者の持続可能性を高める、③(体内環境を含めた)自然環境や社会環境に優しい、持続可能性(環境親和)技術ともいうべき技術である。これらの技術により、人類文明は地球上における持続可能性を確保することができると期待される。 (5) 新たな政策  では制度・政策では、何が求められるのか? まず第一は、技術的政策による、次世代技術の健全な開発・普及である。  技術の発達や社会の変化が加速化し、制度・政策の巨大化と同時に分権化が求められる現在、そこではより多くの人々が、より多くの分野について、より広く協力できるような、文明論的な理論や理念が必要となってくるのではないだろうか。それは、技術的政策が支持を得るだけでなく、新技術の悪用・誤用を防ぎつつ活用を促したり、既存産業にも利益をもたらしながら、円滑な移行を図ったりしていくうえでも重要だと思われる。  第二は、人的資源政策における保健や教育の確保・向上である。これまで人的資源の評価については、理由なき差別や迫害、虐殺の口実にされた例がある一方、否定的な評価を受ける側からは感情的・政治的な反発を受けることもあり、議論がタブーとされてきた部分がある。  しかし、誤解を恐れずに言えば、従来はどんなに人々が面倒を避けて問題を無視し、優しい言葉だけを語っても、天災や人災が起きて環境が悪化すると、私のような虚弱者や高齢者から犠牲となり、問題が〝解決〟されてしまうことがあった。それを無責任で非人道的とみるのなら、人的資源の経年・経代劣化という現象を直視し、差別を許さぬ啓発を徹底したうえで、人道的な対策技術を開発・普及してゆくしかない。  例えば少子超高齢化による社会保障費用の増加や生産性の低下といった問題を、単なる負担ではなく改善指標として強調すれば、危機(ピンチ)機会(チャンス)にすることもできる。全ての人は歳をとり、歳をとったら誰しも身体や頭や心が弱る。だからこそ人的資源の問題を、誰か他の人々のせいではなく自分達自身の問題として考えることができる。我々自身の肉体的・精神的・社会的健康や知識・教養を維持・増進するための、新しい保健・教育技術の普及について率直に話し合い、人間らしい理解と改善を図っていくべきであろう。  第三は、経済・社会政策や行政管理政策(官民協働)における、富の機能的な再分配である。かつては、再分配についての議論も避けられてきた。その背景には、工業時代の経済成長のもとでは格差の問題を考えずに済んだこともあったろうし、あるいは私のような虚弱者や高齢者などは、経済的な困難もあいまって、危機発生時には事実上〝淘汰〟されてきたという事情もあったのではないだろうか。  しかし、百歩譲って淘汰を受忍する立場からみても、科学的・人道的な手段によって人的資質を維持・確保できるのであれば、このような悲劇は無用の犠牲ということになる。ましてや将来子どもの貧困などにより、処遇格差が能力の差を越えて広がったり、適性があるのに生かせなくなったりした場合、そうした人材の遊休や喪失は、文明の持続的な発展にとって恐ろしい結果をもたらす恐れがある。すなわち、そのような損失を容認し続けた社会自体が〝淘汰〟されてしまいかねない。  富の再投資と再分配は、強さと優しさ、権力と正当性の如く、相互に作用しながら車の両輪として働いてきた。そして今、二者を両立させる政策が特に必要となっている。もはや再分配を、さらなる困窮者の増加と経済破綻や戦争・犯罪による犠牲者の大量発生に終わらせてはならない。富の再分配を助ける社会政策に、富の再投資を助ける経済政策、行政管理政策の基盤づくりとしての機能を果たさせ、人道的な手段による資質向上を可能とするような技術的政策、保健・教育政策と合わせて行ってゆくための議論が求められる。  (6) 新たな文明と作品を求めて  いま、人類は地球というひとつの自然環境的な限界に到達し、本格的な宇宙開発にはまだ少し時間を要する。また社会はより豊かとなって一体化しつつあり、『地球的に考え、地域から行動せよ』とも説かれる、いわば70億人一蓮托生(いちれんたくしょう)の時代である。  知性に伴う無制限的な欲求と向上心をもつ人類は、もはや動物のように場当たり的な繁殖と淘汰を繰り返し、その犠牲や費用(コスト)危険(リスク)を甘受し続けることには耐えられないだろう。  また、人類が地球上における持続可能性の技術や政策を手にすることができれば、それは次なる宇宙進出の段階において、宇宙船や宇宙施設、他天体上の基地といった閉鎖系(クローズドシステム)内における文明活動の持続に役立てることもできるだろう。  さらに将来、もし人類が他の知的種族と接触するようなことがあった場合、私達がイナゴのように資源を奪い、食い潰すハリウッド映画の悪役宇宙人のような種族ではなく、そのような行為を必要とせず、許しもしない優れた協力者と見てもらえる可能性を増やすだろう。  理想論でも悲観論でもない現実論として、より人道的かつ効率的な技術や政策による、文明の持続的な発展の実現を望みたい。  『デビルマン』は少年漫画であるが、現在に至るまで、このようなことを考えさせてくれる作品であった。私は、もうひとつの『デビルマン』を想像することがある。後の加筆版におけるように時間移動能力をもった了が、過去の平行世界に移動して、悪魔と人間の対立の悲劇を回避する物語である。  神や悪魔は人間自身の理想像や拡大像ともいえる。神に非ざる人間は、かつてそれぞれの神々を奉じて、災害や疫病、犯罪などの厄災を悪魔のせいとし、時には互いを悪魔に見立てて相争(あいあらそ)ってきた。しかし現在では我々自身が、昔から見れば神業や魔力のような技術を得て、豊かな生活を享受する一方、地球環境の限界が近づき、国際社会も一体化しつつある。今や全ては自己責任であり、我々は〝責任ある神〟となって自らを救うべし(Y.N.ハラリ)とも言われる。〝現代における神話〟があるとすれば、我々自身の内なる天使の独善を戒め、悪魔をも改心させつつその長所を取り入れ、全てを活かして共に生き抜く物語なのかもしれない。  実際に、現在ではちょっとした悪魔よりも怪奇な姿や趣味の怪物キャラクター達が、主人公や街の人々と共存の方法を見出し、可笑しくも楽しい生活を繰り広げる漫画やアニメも人気を博している。多文化的・人道主義的な価値観を基礎としながら、希望に満ちた文明の未来を展望させる、新時代の『デビルマン』といえるような作品の輩出(はいしゅつ)にも期待したい。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!