年越し煎餅

『菊紋と籠目紋』 現在、現存する織田信長に関する屏風を解説すれば、するほど織田信長の謎が深まる。 一般的に流布する織田信長無神論者説を『法華宗の御題目』が書かれた小旗が『永楽紋』の旗の間を所狭く描き織田信長無神論者説の否定する論拠となっていたりする。 その中で最も不可解な屏風は、『長篠合戦図屏風』であろう。 この『長篠合戦図屏風』には二種類が現存している。 一つは犬山市にある『長篠合戦図屏風』 騎乗する織田信長の近くにいる近習とされる三人の背中には『菊紋』が描かれている。 この『菊紋』は織田信長が御陽成帝から下賜された家紋であると伝わっているが、同じ構図で描かれている、もう一つの『長篠合戦図屏風』は違う家紋である。 そのもう一つの『長篠合戦図屏風』は大阪市に現存されていて、騎乗する織田信長の近くにいる近習の背中には『菊紋』ではなく『籠目紋』が描かれているのである。 因みに『籠目紋』は六芒星である。 長篠合戦は織田信長が威信を掛けた重要な合戦である。 そして他の家紋ではまだしも、天皇が下賜した他の大名が真似出来ない最重要な『菊紋』を『籠目紋』へと変えて描かれた屏風が存在するのは理解に苦しむ。 江戸時代に変えられたのでは? と考える方もいるだろうが、江戸時代は徳川家康が林羅山の『朱子学』を広めた時代であり、一部の大名や民衆にとっては徳川将軍より天皇を尊ぶ時代である。 だからこそ、『お伊勢参り』と称する皇祖神が奉られる伊勢神宮への参拝がブームとなった。 そんな江戸時代に天皇家の『菊紋』を『籠目紋』へと変えることは考え難く、また二代徳川将軍の御台所は織田信長の孫娘であり、三代徳川将軍の母親でもある。 さて、この謎の答えは如何なることであろうか。

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