ニェコ

A、ニェコ B、義経伝説 C、ご神体、資料館、洞窟 D、義経神社、義経公園、義経公園内の義経資料館 、義経洞窟 E、複数あるので分けて説明します。 ①ご神体を奉る義経神社について → 平取に住むアイヌの人たちが義経のことをガンカムイ"と尊敬をこめて呼んでいました。 そこで、 当時江戸神田で大仏などを作っていた橋 善啓に、 義経公の像を作らせて平取に寄進安置したと聞いてます。 木像は高さ一尺(30.3㎝)ほどで、ご神体とご神台の裏面にそれぞれの名前が刻まれています。神社の紋章は笹りんどうがデザインされてます。 ②義経公園について → 公園内には弁慶池、弁慶橋(弁慶が渡ったとされる橋)、義経神社(①参照)、 義経資料館(③参照)などがあります。 ③義経資料館について → こちらは笹りんどうの紋入りの陣太鼓、太刀や鎧、 「義経公北之方傅記」、 錦絵などさまざまな義経の資料が収められています。 ちなみに義経伝説が多いのは、 歴史上、義経は藤原泰衡の夜襲を受け衣川の高舘で自害したと言われてます。 しかし、数奇な運命を辿り、歴史に残る部分においても謎の多い伝説に満ちあふれた人 物である義経をそう簡単には死なせたくないという民衆の気持ちや、理想の支配者像を経に求めた東北の武士たちが鎌倉幕府を倒すために義経が再び戻ってくることを話してた結果、京都の公卿たちが、義経生存逃亡説を生み、英雄となった義経は、各地で様々なエピソードを残し、大陸にも渡ったと言われ てます。 義経資料館より ④義経洞窟について → 平取に着いた義経主従は、ここに砦を築き10人あまりの家来と約2年余りを過ごしたそうです。 その間に里に降りて、稗(ひえ)や粟(あわ)などの耕作を教えた。 洞窟からは、鎌倉時代のものと思われる、刀や鎧、兜も見つかっており、義経公が使ったとされる枕石もある。 F、北海道道央 とても長くなりましたが、上記の事が伝わってます。

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