年越し煎餅

穢れの人々 日本人の神道には『祓い』と『穢れ』がある。 これは日本人のDNAというべきキーワードである。 このキーワードが近年、平和憲法などと一部の人々が唱える狂信的な考えのベースになっているのかもしれない。 そう、日本人は戦争でさえも人を殺すことに抵抗が違う意味であるのだ。 人を殺せば、自身が『穢れ』る。 それだけ日本人は『穢れ』を恐れる。 この考えは、かなり古くから日本人は思っていた。 調べれるだけで1000年は軽く遡れる。 この『穢れ』が怨霊と結び付いて平安時代の幕を上げた桓武天皇は武装を放棄したほどだ。 これ以降、天皇を始めとする朝廷は、事実上の死刑を廃止した。 現代の日本には死刑が存在しているので昔の人ほど潔癖ではないのかもしれない。 しかし平安時代の朝廷は、武装を放棄したとしても東北には蝦夷の民がおり、権力闘争もあって武装は必要だ。 そこで考えた朝廷は、自分達の代わりに『穢れ』る存在へ委任した。 これより天皇、朝廷は、明治政府が成立するまで武装及び軍隊を保有していない。 その『穢れ』た存在とは……武士である。 武士を「モノフフ」というように鬼=『穢れ』であり、武士が『穢す』ことで、朝廷が『祓い』をする体制へとなった。 歴史小説家がどれだけ賛美しようが、日本の歴史で一番『穢れ』た存在は武士である。 しかし武士の中にも『穢れ』た存在から自身を抜け出そうとした人物も居た。 平清盛、足利義満など……。 しかし知っている通り、血塗られた日本の歴史には当然のように武士が存在する。 武士が権力を握り、自身を『公儀』(公の機関)と呼んだが、朝廷は武士の『公儀』を『幕府』(朝廷の出先機関)と呼んだ。 現在、『公儀』と『幕府』のどちらが認知されているかは、書く必要もないだろう。 どれだけ小説家が飾り立て、多くの言葉を紡いでも日本の歴史の中では、武士が一番『穢れ』た存在なのだ。
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