鑑定士

おくらばせながら拝見しました。多々賛同する部分はありますが、時折に矛盾も見受けられました。検察審査会の非公開制に対しての意見は賛同しますが、それが検察の暴走に利用される危惧を感じるなら、取り調べ段階からの可視化を含めて、公開を主張しなくてはなりますまい。 民主主義の根幹としての、司法の独立を担保する為には、それは必要では無いのでしょうか?また、逮捕や起訴された事による物質的精神的損害は、日本では悪人としての烙印を押されたのと同義語です。それが冤罪であったとしても、無罪放免以後でも、怪しいと思われる土壌は変わりません。しかし、司法が権力の走狗として使われた事は、日本では珍しくありませんし、昭和初期の515事件等は、新聞論調に煽られた国民の声?によって、軽過ぎるくらいに軽い判決を行う事さえ起きました。これが、後の226に繋がり、軍部独裁への道を開いたとも言われています。 司法の独立とは、国民感情を無視してでも法に忠実な判断ができるのか?そんな微妙な問題も含まれているのです。今話題の朝日誤報問題にしても、強制連行の有無に関して言えば、実は勝新太郎主演の、兵隊やくざシリーズで答えは出ていました。当時を知る兵隊世代が、違和感も無く共鳴出来たからこそシリーズ化もされたのであり、体験の裏付けがあったからだと思うのです。その中で、朝鮮出身の慰安婦が、キーセン(伎生)より稼げるからと言うと、日本人慰安婦も、戦地は稼げるから私も稼ぐ為に来たと答えています。 それが当事者の共通認識だとしたら、強制連行とは無かったと判断するのが正しいと思われるのです。 些細な記述だと思われる事でも、民衆の共通認識から離れたら、カットされるという意味では、良い例だと思われるのです。 朝日の問題&時の首相の宮沢喜一と河野洋平の問題にしても、宮沢喜一さんは前線に出た事も無い、内地に居た官僚てしたし、河野洋平さんは子供でしたから、知るよしも無かったのです。朝日の罪は、当時を知る人々に確認もしなかっただけでなく、B級戦犯に問われた百人切りの記事を、結果として肯定し、でっち上げ記事が元で死刑にさせた事をもってしても、そのメディアとしての無責任さに根幹があると言えるでしょう。 そんな無責任なメディアの論説から、司法は離れて居れるのかは、日本では難しい事かも知れませんね

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