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2.道具と人間の違い 人は道具ではない。この前提を定理としておく。定理とは、覆らないものである。仮に人が道具であった場合には、矛盾が生じてやはり定理が正しいと認識することである。 話を進める。人は道具ではない為に、予測することが難しい。道具とは本来使用用途が決まっている。自販機に置いてはジュースと硬貨を入れ替えることが、使用用途である。 しかし、人は使用用途などない。何故その人間がそこにいるのか、なんの為にこれまで生きてきたのか、考えても、日記をすべてデータ化しても割り切れない。予測不可能なのである。 ここで、人を信じるということについて考える。人を信じるとは、その対象となる人物を信じるという意味ではない。人を信じるとは、過去のその人物の行いから予測される行動を信じるということである。つまり、予測に頼る方法だ。 人が予測不可能であるのに対し、信じるとは人を予測することなので、これは矛盾する。では、何をもって信じるとすれば、社会とはより上手く動くのか。その方法は多岐にわたる。 ①予測不可能を信じる その対象が予測不可能な動きをするものだと、あらかじめ認識しておいて、信じる。この場合、予測不可能をすべて網羅するため、予測不可能は予測可能となり、信じることができる。 ②予測する自分を変化させる 信じる対象と共に行動し、時系列的にもっとも正しい答えに寄り添いながら、信じる。この場合、予測不可能な現象、反応の差異を小さくすることができる。必然的にストレスは小さくなり、正解とは言えないが対処に手間を取らない。 ③予測しない これは、信じないと同義である。と思われがちであるが、そうではない。相手の行動こそが、結果だと受け止めることである。自販機からジュースが出ようが、でまいが関係なくその結果を受け入れるやり方である。この場合、自分自身に予測しなかった負荷がかかることになるが、それについては言及しない。 3.まとめ 予測することは自由である。予測されることも自由である。信じることも自由で、信じないことも自由である。社会性を重視するならば、ストレスの少ない生き方を自分自身で探究する必要がある。おわり。 (蛇足) この意見に関しての批判はすべて受け付ける。ただし、この意見を書いた本人や、状況がかなり限定される場合については今回考慮していないものとする。

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