覇王樹朋幸

 子供の頃、幼い頭ながらに考えたことがある。セミの幼虫は、コンクリート舗装された道路から出ることができるのだろうかと。今や東京23区内の地面は、コンクリート舗装されていない個所を探す方が難しい。名実共にコンクリートジャングル。ああ、この東京砂漠。コンクリートで平らに均してしまえば、確かに交通の便が良くなる。そうして自然の何かに蓋をし、自然から何かを奪い続けることで、人は利便性というものを獲得し続けてきた。  人が利便性を追求する上で犠牲とするのは、何も自然だけではない。否、人間も生物である以上自然の一部と見做すことができると考えれば、やはりそれは自然を生贄に捧げていると言える。人は自らを粉にし、必要以上に働くことで、その経済に「利」をもたらすのである。日本人は勤勉で働き過ぎだと言われることがある。しかし、「経済」を支えるものが何なのかを考えると、日本人はかく在らねばならぬ、とも言える。その結果が窮屈な繁栄であったとしてもだ。時に考えることがある。牛丼並盛ン百円という低価格を実現するために、果たして誰の何がどれだけ犠牲になっているのだと。その犠牲の上に成り立つ成果の上に、居座る権利が私にあるのだろうかと。それだけの貢献を、私は「経済」というものにできているのだろうかと。  そんなキリギリスのような私とは違い、アリのように身を粉にする方々がいる。キリギリスである私ですら、現実逃避をすることは幾度となくあったのだから、アリの方はより一層そうなのではなかろうか。いや、そうでないからこそアリなのかもしれない。それこそ文字通り身を粉々にするまで働き、逃避することができなかったが故にデッドエンドへ突っ込んでしまう。本作の主人公のデッドエンドは、「当駅始発の最終列車」であった。現実的に考えれば過労による心臓発作、要は過労死とでもなるのだろう。しかしそんな彼が最後に見た幻は、人間の利便性の追求の犠牲となったものたちの進化した姿だった。  アリは、空を飛びたかった。  だから、セミになったのだ。  この窮屈な繁栄から、解放されたかった。  だから、セミになったのだ。  本作は、ホラーというジャンルの枠組みを軽々と飛び越え、ある意味社会問題を浮き彫りにし、その内容は文学にまで昇華していると言える。
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