朔日

あきさんこんばんは。Abberation作者の朔日と申します。この度は拙作で真剣に考えて頂きましてありがとうございます。文字数の関係上こちらで返信させて頂きます。 刺激的な人生と平凡な人生どちらが良いかについて、「隣の芝生は青い」であったり「個人の価値観による」であったりは聞き飽きているでしょうが、やはり私は自分がどこまで求め、どこで満足するかによる気がしています。 マズローの欲求階層説というものがあります。その説では、承認欲求というものは生存欲求より遥かに高次の欲求であり、特に、人並み外れた容姿や能力などで社会に認められたいというのは、最高位の欲求ですから、満たすことは難しいかもしれません。そういう意味で、難しい欲求を満たしている人(刺激的な人生を送る人)を羨むことも自然かと思います。 しかしながら、Abberationで二人が求めたものはお互いにとっての特別であること。透真は特に顕著です。仕事、研究の評価、総司、ゆりからの愛を受けて、それでも流生の特別でなければ意味がない。愛する人の特別になれなければ、社会からの評価を受けたって意味がない。そういう点を考えれば、私達は身の回りの人の特別になれているのか、生きる意味を与えられているのかを考え直すことが必要なのかもしれません。 あきさん自身が過不足のない生き方だと仰るのなら、きっとあきさんは今の生活に満足されているのでしょう。ただ思い出してほしいのは、例え社会的に目立つような刺激的な人生でなくても、あなたが特別に思う人がいて、あなたを特別に思う人がいるはずで、そういう人にとってはあなたこそが生きる意味であるはずで、平凡な存在などではないということです。 人目を引く刺激的な人生か平凡な人生か、どちらが良いかは正直なところ私にはわかりません。しかし平凡な人生においても、あなたが誰かの特別になれていることは事実でしょう。それも含めて平凡だと言うのなら、平凡な人生とはなんて幸せなのだ、と私は感じます。刺激は確かにたまに欲しくなるものですけれど、現状に不満がないのであれば、自分にとって特別な人の特別になれている幸せを今一度噛み締めてみるのも良いかもしれませんね。 思いがけず長文になってしまい、申し訳ございません。思案する機会をいただけたこと、深く感謝致します。ありがとうございます。

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