未知乃みちる

わたしの見つけた「私」の在り方
今作を拝読するにあたり、関連する過去作と切り分けて真っさらな頭と心で読み解いてみた。 「私」の主観が描かれていた故に、わたしも主観的な見方で「私」を眺めてみた。 わたしの主観から見ると、彼女は下記のように見えた。 「私」はまるで世界の外側に拘束されているように映った。いや、「私」が「私」を拘束しているのではなかろうか。 あのままでいさせてほしかったと望む「私」は、「あなた」と溶けあえたのち、不必要なる意識を与えられてしまった。意思というもの。 自分自身と自身の意思が溶けて流れてなくなればいいと言った「私」は、意思というものに縛られている。だから自らの意思の存在自体を否定したいのだろう。 「私」は意思というものを意識の外へ追い出したいのだろう。 助けてほしいと「私」はわたしに訴えたが、わたしは彼女を救う方法を知らない。知ることは出来ないと思われた。 自身の意思を手放したい「私」は、感情と感覚による存在で在りたいのだろうか。そう在りたいのに、意思は邪魔をする。 涙を流すことも、苦しみに心を痛めることも、悲しみ嘆き叫ぶことも、感情によって引き起こされる。そしてこれらは意思が無くとも、感覚的に行える行為だ。 だから「私」はきっと意思を必要としていない。 今の「私」の自由、それは意思を否定し感覚のままに在ることかもしれない。 しかし、こんなにもあのままでいさせてほしかったと懇願する「私」は、溶かして流したくても、意思を手放せないだろうと思わずにはいられない。 「あなた」と溶けあえたあのとき、「私」は喜びと共に、このままでいたいと願ったけれど、「私」にはそれを伝える方法がなかったのだろう。そのとき、きっと「私」の意識の中にはまだ意思という存在がなかったから。
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