さかしま

『火垂るの墓』の、野坂昭如はものすごいスピードでわざと書いたそうだし、それによって、文体も面白いことになってるのが、読んでもわかる。 しかしそれはどういうことなのか。つまり、思考というものは、つまりインスピレーションというものは、遅く書けば、書くほどその光を失ってしまうので、それを逃さないようにしているとしか思えないんだな。モーツァルトの例を挙げるまでもないけど、一発で書いた方が、確かに良さげである。 野坂はパソコン使えたんだろうか。多分手書きじゃないかな。今時、誰でもタイピングできるので、彼の方法をね、作為をね、借用しない手はないんじゃないかな。 つまり高速でかければ、それに越したことはないと思うんだ。あんまり極端すぎてもいけないけれど。 私は、早く書くとはどういうことかについて考える。早く書くとは、実は、人間の思考にとって普通の速さで書かれているのであって、それにたまたま、人間の記述が、やっと、ちょっとだけ追いついたということなんじゃないかなあ。 もちろん、ゆっくり書くこともいいんだな。ゆっくり書きながら、二、三文字、紙の上に残し、そこに全宇宙がある。いいじゃないですか。 しかし、ここに高速で書くという道もある。実験的に、このつぶやきもかつてない速さで、自分でも書いてみてるのだけれど。それで文体がぐにゃりと変容しているのなら、その「ぐにゃり」がそのまま、人間の意識の「ぐにゃり」なわけで、それをそのまま書くということは、立派な表現になっているはずだ、と思いたい。それで、なんだっけ。 だけどそんなに早く書いていいのかという不安もどこかにある。これは何か。「普通に書くのが一番いいんじゃないか」というマインドブロックだな。でも、この場合の「普通」とは、文学において、決めつけることは、その可能性を狭めることになるだけだし、僕は例によって「どっちでもいい」とせねばならない。
3件

この投稿に対するコメントはありません