さかしま

小説において必要なのは論理ではなくパッションだろう。 もし論理で話がすむのなら、哲学でおいおい泣くがいい。 いかにしてパッションを獲得するか。 わたしがりんごについて書くとする。 わたしがりんごが嫌いなら、そのテクストはたちまちりんごに対する呪詛となるだろう。 そのような意味でなら、わたしはすでにパッションを持っている。  それに気づくだけでいい。 そこからいろいろなことが言える。 わたしがりんごで泣けないなら、りんごで泣かそうと思うな。 正直になるしかない。 人は正直に書いた方が幸福である。 それによって書きたいことが書けなくなるということはない。なぜなら、もしそれで書けなくなったとしたら、それは本当は書きたいことではなかったからだ。
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