たすう存在

僕と彼女とカップ麺
リビングのテーブルに座って熱心にスマホの画面を注視していた彼女がまるでいま目覚めたかのようにがばと顔をあげた。 「ねえ、これ読んだ?」 その言葉とともに、彼女がスマートフォンの画面を差し出す。 見ると、そこには「自己啓発の代償」の文字が表示されている。 「悪いけど、自己啓発には興味がないんだ。 そもそも見ず知らずの他人の言葉で啓発されてしまうようなぺらぺらのものを自己と呼ぶんなら、クラゲのほうがよっぽどマシな自己を持っていると思うよ」 「違う違う。 あなたが自己啓発とかビジネス書とかに興味がないのは知ってるけど、これはそういうんじゃなくて小説なの」 「小説?」 突き返しかけたスマートフォンの画面に再び目を落とす。 そこには自己啓発の代償というタイトルとともに、表紙画像らしき猫の横顔の写真と、著者名として岡田朔という名前が記載されている。 「なんだ、岡田さんの新作か。 始めからそう言えばいいのに」 僕は改めてスマホを受け取ると、はじめから読むという項目をタップする。 岡田朔というのは、エブリスタという小説投稿サイトで、オリジナリティがありつつもとてもクオリティの高い小説を発表し続けているクリエイターだ。 様々なジャンルの物を書きつつも、深さとリーダビリティを兼ね備えたその作風に、僕も彼女もドはまりしているのだ。 「言う前にタイトルで拒絶しようとしたんじゃない」 僕がその作品を読み始めると、彼女は立ってキッチンに向かった。 やかんに水を入れてコンロにかける。 「お昼何もないの。 カップ麺でいいよね」 「じゃあ僕シーフード味ので」 返事をしながらも僕の目はスマホに並んだ文字を追い続ける。 冒頭の杏のセリフから引き込まれ、ページをめくるとカップ麺批判だ。 僕は苦笑する。 健康に気を遣う杏の気持ちも分からなくはないけど、どうせヒトなんてそれほど長持ちする体を持っているわけではないのだ。 恋愛小説だろうか。白状すると僕は岡田さんの小説を読むまで、恋愛小説には興味を抱けなかった。 だが彼女の小説はメインプロットが恋愛であってもそこに別のファクターが絡んでくる。 それは家族愛や親子関係であったり、芸術であったり、友情であったりと様々だが、それらが絡まりあうことで、とても魅力的な物語になるのだ。 僕はそれをとても気に入っていた。
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だからこの自己啓発の代償も恋愛小説として読み進めるつもりでいたのだが、すぐにその様相が変わってきた。 「これって、ホラー?」 僕はお湯を注いでいる彼女の背中に訊く。 「そうだよ。 サークルのイベントらしくって、ジャンルとかタグ?っていうやつとかが決められているんだって」 「そうなんだ」 岡田朔といえばホラーの名手でもある。 これは期待できそうだと思いページを進めるとシーンが変わった。今度は道永の視点で物語は進んでいくらしい。 だがそこで僕は殴られたような衝撃を受けた。 CTB M なぜここにその言葉が出てくるのか。 道永が杏に指南するCTBについての知識もまがい物で
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これは上手い手だ。 これなら大きなエネルギーも得られるし、まさにお手本にしたいぐらいの手際だ。 「はい、どうぞ」 言葉とともに僕の前にカップ麺が置かれた。 「あ、ああ、ありがとう」 「どうしたの、怖い顔して。 岡田さんの小説、そんなに怖かった?」 「うん、そうだね。とっても怖かった」 「突拍子もない話なのにリアリティがあって、突き落とされるような怖さなのに、なんだか生々しいのよね」 「小説におけるリアリティというのは、いかにもあり得そうな事を書くんじゃなくて、たとえ荒唐無稽でもそれが実際に目の前で起こっていると読者に感じさせる技術のことだからね。 その点、岡田さんはすごいよ」
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