小夜時雨

さて、掬い取ったケーキを口のどこで味わおうか。これもまた非常に悩ましい問題である。舌の上。王道だ。問題はその舌のどの辺りかということでもある。手前か、奥か。右か左か。以前、なにかの本で耳にしたことがある。舌の上でも場所によって味覚の感じ方は違うと。 それにはきっと個人差がある。私は様々な場所を試した。結果、お気に入りの場所は舌の中央やや左寄りである。 私は舌の上でケーキを少し舐めて、そのまま溶けていく様を楽しむのが好きだが、そうすると最後にいつも果肉が残る。それはそれで好きだが、舌の上ではなく歯の間で噛むのも悪くない。前歯で分断するのも悪くないが、どちらかと言えば奥歯を使った方が一気にその芸術を破壊しているようで味わい深い。最も、舌の上で緩やかな死を迎えるほうが好みではある。しかし、先にも言ったように人間には慣れがある。美味しいものはいつだって新鮮に味わいたいものだ。変化というスパイスを振りかけたほうが美味しくいただける。 そうこうしているうちに紅茶が冷めてきた。当然だろう。ケーキの半分食べるのに二時間もかけていれば。冷えた紅茶はこれはこれで美味しいが、なにか足りない。 まず、リビングから自室に移動した。テレビの音が五月蝿い。加えてこの部屋は明るい。底抜けに。それに他の家族がいる。一人になりたい。 それから部屋の電気を消した。視覚をなるべく潰したい。しかし、駄目だ暗すぎる。ケーキが見えない。ギリギリケーキは見えるが他は見えないという状況がベストだ。私は自室の扉を数ミリ開け、廊下の光を部屋に取り入れる。これがベストだ。 そしてケーキが美味しく感じられる曲を。お気に入りの幸福な音楽を。私はホルスト、組曲惑星の中から平和の使者、金星を選んだ。 いただきます。ケーキを再び口にする。紅茶を間に挟むというサイクルは崩さず。ケーキを一口食べる度に、紅茶を一口飲む度に恍惚として体感時間数十分は固まっていた。ケーキはゆっくりと崩落していく。しかしまだ足りない。

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