さかしま

将棋で言えば、相手を詰ますという目的があるので、難しい理論はいらない。その目的というか、将棋の意志というか、神様に従っていればよくて、それが一番上手くできる人が強い。 ところで小説では、なにが目的になるのだろうか。 読者を感動させること? それはそうだけど、わたしが聞きたいのはそういうことではない。 将棋だって、ものすごい一手を見たときは感動することができる。 そのものすごい一手は、さっき言った、将棋の意志のようなものに従順するところから湧き出てくる。 だけれど将棋の目的が、見た人を感動させることというより、相手の玉を詰ますことで、それを小説に置きかえればどうなのだと聞きたいのだ。 推理小説で言えば、犯人を捕まえることだろう。それは将棋で玉を詰ますことに似ていて分かりやすい。 それでは純文学ではどうか。 犯人を捕まえるとか、そういう目的がないため、なんだかつかみ所がない。 そこではただ人が生きている。 カフカの『変身』の美しさは、どこから来ているのだろう。 変身が解除されることが目的なのではない。 もしもカフカがそんなふうに『変身』を書いていたとしたら、わたしは彼を嫌いになってしまう。 カフカの魅力は、変身してしまったというシチュエーションのなかで、ただただ生き続けることにある。 書かれ続けることにある。 将棋に目的はあるけれど、わたしの考えでは人生に目的はない。 作家になることが目的だ、と思っている人もいるかもしれないが、それは人生の目的ではない。 小説を書くことは、人生に含まれる。 将棋を指すことが人生の目的ではなくて、人生の中でときどき人が将棋を指すように。 人生のなかでたまたま小説を書くこともあるかもしれないが、それじゃあなんで小説を書くのか。 人は生きる。 理屈じゃなく。 わたしは今、生きている。 まだ死にたくない。 生きている。  理屈なんかあってたまるか。 いや、人は自信が消えたとき、「作家になる」「将棋師になる」という目的や理屈を産み出してそれで安心する。 しかしそのとき、人は芸術的なものと、絶縁されてしまうのだ。 逆にだからこそ芸術はある。 そして、わたしたちは書く。  理屈じゃなく。 いや、理屈じゃなくするために。 小説を書くことを目的にしていた。 そしたら、目的なんかなくせ、ということになった。 不思議だ!

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