佐倉さく

他人の命の責任をどこまで負えるのだろう
 かつて戦争がありました。  というか、こんな言い方がおかしいくらい、人類の歴史は戦いの記録です。  人々はさらなる豊かさを求めて奪い合い、人を殺してきました。  大量殺人はかつて正義だったのです。  もちろん、戦利品としてその土地の女を陵辱することも当然の権利でした。  私たちが「倫理」というものに価値を置き、それらが「悪いことである」と評価することになったのは、人類の歴史からすると、ごくごく最近のことでしょう。  「倫理観」を仕込まれた私たちは、身近な人が、不本意に殺されることや、性を搾取されることに憤りを感じます。  これらみな、被害者としての見解です。  でも。  もし、加害者なら?  仕事として、軍人となり、戦争で人を殺してしまった場合。戦争のための策略に利用されて、関係ない市民を大量に死に至らしめてしまったとき。  例えば、命一つで責任が取れるのでしょうか?  天秤にかけたら、絶対に加害者一つの命の方が軽いですよね。死んだ人やその身内からすれば、決して許せる存在ではないでしょう。  きっと、その罪は償えないのです。  そして、それらを贖うためにどれほど努力したところで、決して報われることもないのです。  この物語には二人の主人公がいます。  娼婦の少女スノウと元軍人のイヴァン。  抱えきれない罪を背負い、さらには被害者でもあるイヴァンが純粋なスノウの心に触れて、己の生き方を徐々に見出していきます。  人の命の対価は絶対に支払えません。  けれどそれは、「一生贖罪しろ」という事でもないのだと思います。  何ができるのか。どうあればいいのか。  それらの答えは出る事はないのでしょう。  けれど、足掻いてもがきながら、少しでもその問いの答えに近づけたらいい。  作者様がこのお話を通して伝えたい事とは異なるかもしれませんが、私はそんな風に感じました。    
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佐倉さま このたびは拙作をお読み下さり、またとても丁寧で真摯なご感想、ありがとうございます…! 佐倉さんのコメントを読んで、私の好きな映画なんですけど「プリズン・サークル」というドキュメンタリーを思い出しました。刑務所の服役囚たちが、自らの罪を顧みることで他人と自分の傷に気づき、更生していく過程を描いた日本映画です。まさに加害者の物語の映画ですね。そのなかでも罪に気づき、もがき、後悔し、だけど同時に自らの生にも希望を取り戻す過程は、とてもリアルなものでした。 でも被害者からしたら「だからどうした、甘っちょろい」といわれる姿です。佐倉さんの仰るとおり「人の命の対価は絶対に支払えない」のですから。
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ツルカワ様 お返事ありがとうございます。 プリズン・サークルは存じ上げません。浅学ですみません。  イヴァンが記憶を取り戻しながら罪悪感にも苦しむようになる姿は生々しく、体温を感じました。  どのような形であれ、人は加害者であり被害者なんじゃないかな、と思ってます。純粋にイヴァンを想うスノウに対して、自分自身の罪にくるしみながらも一緒に歩もうとするイヴァンにとても強く惹かれました。 外伝も引き続き追わせていただきます。 とても素敵なお話をありがとうございました。
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