todaka

 地の文の美しさ。  私が小説を読むときに重視するのはコレ。小説が明確に他の表現手段より優れているのは、文章そのものの持つ美しさだと思う。  アメリカの小説家トルーマン・カポーティの小説「ミリアム」とか「夢を売る女」とか、美しい表現の宝庫で、何度も読む価値があると思う。  しかし残念ながら、地の文の美しい文章というのは才能と経験がものをいう。そして困ったことに、文体で読ませることができるほどの小説家がいても、そういう人は、だいたい今の時代では「売れない」のだった。  もちろん小説という表現手段の優れている点はたくさんある。たとえば、心理描写がやりやすいとか、読者の想像の余地を多くとれるとか。恋愛小説や推理小説、ホラー小説など、特定のジャンルでは、この利点が最大に活用できる。  しかし、商業的な視点から、小説の最大のメリットを挙げてしまうと、それは恐らく「低コスト」であるという点に行きついてしまうだろう。  漫画もアニメも、作るには比較的多くのコストがかかる。連載しようとしたら一人じゃできない。  しかし小説は独りで書ける。  たとえ文章の技術的には並であっても、ストーリーさえ面白ければ、漫画やアニメなど他のジャンルに進出して商業的に成功できる。  売れる作品を求める出版社にとっても、既に固定読者がついているWeb小説を元に展開した方が、自分で作家を探して育成するよりコストも低く済む。成功率も高い。  というわけで、マルチメディア展開には向いているけど、実は小説である必然性がないという作品が数多く本屋に並ぶことになる。  こうして、ますます私が好きな「地の文が美しい」小説は日陰に追いやられてしまうのだった。  まあ、しょうがない。  だって、こういう私だって、かつてプロのライターとして漫画家志望者や小説家志望者の話を聞いたときに、文章表現の巧みさなんて重視しなかった。プロが見るべきは「売れるかどうか」であって、自分が好きかどうかじゃないんだもの。
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