lucifero

心だとか、 魂だとか、 愛だとか、 何を伝えるべきかと 思いあぐねていた。 蟻が象を眺める寓話がある。 遠くから眺める蟻 近くから眺める蟻 前方から眺める蟻 後方から眺める蟻 皮膚の上から眺める蟻 穴の中から眺める蟻 眺める場所によって 象の形は異なるって話。 ここからは創作の話なんだけど 蟻の意識は共有されていて 穴の奥の女王蟻は 数万匹の蟻の目で象を認識している。 蟻によっては一つの巣に億単位生息しているらしい。 人間の研究の一つひとつはそんなもので 一つを極めては大騒ぎしている。 象の全てを知り尽くしたとしたら 何が起こるだろうか。 研究結果を何度も何度も反芻し続けるのだろうか。 それとも新たな研究対象を探すのだろうか。 もし上っ面の研究でなければ、 何処かで象という存在に圧倒されるだろう。 象という命がそこにあるということに。 そして、 あらゆる命がここにあるということに。 猫が好きなら分かるよね。 共にあることが嬉しい。 共にあることを楽しむ。 猫の情報なんていらないよね。 その瞬間、瞬間に知っていく。 驚き、笑い、心配し、 共に生きる。 情報社会っていうけど、 言葉と情報によって人は分断されてしまった。 人も命も情報で判断される。 何処かで象という存在に圧倒される瞬間。 愛というものに圧倒される瞬間。 そんな瞬間が訪れることなく、 頭の中は雑多な情報で埋め尽くされていく。 共に生きる術を知らず、 孤独に陥っていく。 共に生きる。 愛という繋がりを生きる。 愛って何? いま流行りのAIに聞いてみたらいい。 自分自身に聞いてみてもいい。 実感のない言葉が返ってくるだけ。 創生の時より受け繋がれてきた命。 奪い合い、傷付け合い、 なんとか生き延びてきた果ての貴方。 そして、私。 こうして言葉を交わしている。 でもね、 特別なことじゃない。 流転してきた事象の全てに圧倒され 跪く。 何を語ろうが大したことじゃない。 大したことは この事象の全てが いまここにあり、 いま、 まだ、 動き続けている ってこと。 奪い合い、傷付け合い、生き延びてきた。 その果てにある一個の自分を 勝ち誇るのではなく 跪くこと。 それは敗北でも、懺悔でもない。 背負うのでも、背負わせるのでもなく、 この壮大な物語を いま、共に生きること。 まだ、共に歩くこと。 全く語り尽くせない。
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